103

僕が一番いやなのは、自分は小高い丘の上に立ったまま一歩も動こうとはせず、そこからボソボソと低く小さい声でこちらに話しかけ、僕がそこへわざわざ近づいて話を聞きにくるということを当たり前だと思うような人や状況だ。言いたいことがあったとき、その相手の近くに、自分から動いていくか、それができないなら近づかなくても意思を伝え合えるように大声を出すとか、あるいは電話やメールをするとかするのが当然だと僕は思う。自分の伝えたいことを伝えるために、相手が自分のもとへ来るのが当然だと、そして自分は自分の場所を1ミリだって動かず、しかもいつまでもその声は小さいまま喋り続ける人というのがいて、それは僕の中にもあるが、本当にこまる。
しかし、まあ、本当にこまりはするが、それはしょうがないじゃないか、とも思う。それは僕ではないから、僕が僕の思うように変えるなんてことはどう考えても無理で、それを変えてやろうなんて思うほど、僕の時間はそこに使われてしまってそれこそ取り返しがつかない。自分にできることをやるよりない。他人を変えることは僕にはできない。なにせ僕自身のことすら思う通りにはできないありさまで、思い通りになどいかないしできない。できる、という前提に立てば、つねに世界はマイナスだ。できない、という前提にして、世界はつねにプラスであるということにしたい。あるいは、移動ナシ。プラマイ・ゼロのイーブンということで。
できることを少しずつやっている。スーパーマンのように(という喩えもいまどき凄い)なんでも奇跡のような勢いとありようで達成させたい、とそりゃ思うしまだ思っているが、それを前提にしてはつねに落ちこぼれとして自責してばかりじゃないか。大抵のことは無理だが、足元に落ちているひとつの空き缶を拾い上げ、手元にあった小さなコンビニのビニール袋に放り込むぐらいのことなら僕にもできる。ひとつだけ拾う。ひとつ分だけ、足元から空き缶が消える。意味があるといえば、それだって意味だ。そのひとつだけを、何度かくり返した気はする。積み重ねが生む意味について言っているのではない。たまたま、積み重なったら嬉しいときもあるという程度のことで、やはりそのたったひとつが最大にして唯一の重要なことなのだ。まだ、僕にそのたったひとつを拾うことができるかどうか、いや拾うかどうか、という、そのひとつにまでいつも結局戻ってきている。なにせ僕だって丘の上の小声の人だ。こまった。しかしそこでも拾えるゴミはあるだろう。それをたったひとつだけ拾う感じで。