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 小説家の平野啓一郎さんがはてなでブログスタート。
 http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/
 自身のサイト(http://www.k-hirano.com/)でこれまで更新していた「メッセージ」欄の場を移転、リ・スタートしたもので、まだエントリーは2件だが内容も文章も凄い(という言い方が一番近い)。佐藤さんの件については、どうしてここまで言われて平野さん側からのコメントがないのかと以前から思っていたが、それは平野さんが相手にするのもばかばかしいと思っていたからのようで、でもそれでは佐藤さんと平野さんのどちらの話も実証/実感しきれない読者を宙ぶらりんにすることになるから(僕はそうだった)、せめて「新潮」がなんか言わなきゃ、というのは会社としてどうって説明するということではなくて、せめて平野さんに関してはこうこうこうでした、って言っておかなきゃいけなかったよな、と、佐藤さんのコメントを読んで「え、そうなの?」とポカンとしてしまった当時の僕としては思うわけだけど、こうやってアナウンスが出てそれだけでかなり落ちついたし、今後の平野作品の読み方もより良い方に変わるって気がする。
 「より良い方に変わる」といっても、必ずしも良いことばかりではなくて、というのは以前の「え、平野さんってそうなの?」という、なんだ、あれだ、疑いとも言えない薄ーい疑念のようなものがあった状況が悪かったのかといえば必ずしもそうではない、と言いたいのだが、つまり「え、そうなの?(パクったの?)」とか思いながら僕はそれ以後も(佐藤さんのコメントを読んで以降も)平野作品を文芸誌などで折りに触れ読んでいて、その際には「作品は作品、別物だから」という気持と「でも、周辺情報(作品そのものとは関係のない情報)が読書に影響しないはずもない」という両方の要素を抱えていたわけで、それが何を意味するのかというと、しっかり読む、という姿勢を導く。しっかり読む、の反対は「流して読む」とか「雰囲気で読む」とかいうことで、そういう読み方が悪いと言うのではないのだが、ただ「しっかり読む」の良いところはまたはっきりあって、それを運んできてくれたその状況、つまり宙ぶらりんなままの読者時代というのも無駄ではなかったかもな、と僕はここで回想している。
 でもそれはそれとして、平野さんがこのことに関してコメントしてくれたのは個人的に非常にありがたかった。

 ところで誤字脱字箇所を二つ見つけたので遠くから書いておきます。中盤の「噂の真相」が出てくる前の行の文末、「法的手段ということも検討しなければならなかったかもしない。」は、「かもしれない」。また、最終段落、最終行の直前の文末、「しかし、とももかくも語った。」は「ともかく」でしょう。とはいえブログエントリーにおける誤字脱字ってあまり重大事としては頭に入ってこなくて、「そんなのはいいから内容を読もう」という気になるのが不思議、というか校正者のいない世界であることをみんなが無意識的に前提として認識しているからか。