103

感化され貴方へひとり言



0) id:kataru2000さんのニート話(http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/20050130)を時おり読んでいたのですが、それがほぼ完結を迎えたようなのと、このところ思っていた事と少しリンクしていたので、珍しく”そういう”感想を書かせて頂きます。



1) 映画監督であり芸大の先生ともなる黒沢清さんが、映画『アカルイミライ』のメイキング映画『曖昧な未来』の中で言っていたのが、「大人と若者がわかり合えるわけがないです。わかり合おうとするから問題が生じるんです」(大意)ということで、そういう問題についてはしばらく前から考えていました。折に触れ。



2) 前から思っていた事が最近言葉になり始めて思うのは、世代に関係なく考えたり行動できる人というのが、人間の中には、いるということですね。
 それは個人的には第3の性とか言いたくなってしまうんだけど、それでは性別のことになってしまうのでしかたなく超世代とか超世代人とか言っておきます。世代の垣根があるとして(それは実年齢ではなくいわゆる精神年齢における世代であるとして)、それをこう、悠々と飛び回れる人たち。超世代の人。私は、そういう人が今後増えていくんだろうな、と思ってます。希望的にではなくて、ただそう想像してしまう。



3) 考えの相容れない複数の人間が互いに共通の何かを見出そうとすることは、「押しつけ」の生じる可能性を拡げるのだとして、今や人々は、個々に好きな事を、それを好きな人たちに向けてやることで、世界を豊かにしていくべきなんじゃないかなあと私は思っています。
 でもきっとそれは、私と「世代」の異なる人々には伝わらない世界像で、伝わらないというそのことは、絶望でありまた希望でもあると思います。これはわかりやすい二項対立であり(大人と若者)、その二者は最早、やり合う必要を持たないのですから。



4) 造語「超世代の人」に戻りましょう。私はそれになりたいなあ、と思っています。それではまるで、それが若者側に近いものであるようにも見えますが、私の定義ではやっぱり違います。超世代の人は、世代を理由には、やり合わないのです。
 超世代の人は、年の上下に拘わらず、相手の中身と対面します。それができる人はみな、私にとってのその人です。
 超世代の人は、自分のモラルを誰かに押しつけたりしないし、喜ばれもしない教訓を世代の役割として頼まれもせず教示したりしません。そしてまた同時に、そういった人々を諭す類の役割をも担いません。



5) 個人が個人の叫びを空霧に散らす。それだけが超世代の人にできることなのだとして、押しつけも押しつけられもせず、彼らは自分の為だけに歌います。結局のところ、大好きな人が彼の歌を喜ぶことも彼の喜びなのです。



6) 基のテキストを読んで一番印象に残ったのが、それぞれの方が一つの言葉、たとえば「現状」や「自由」や「将来」といった言葉を使うのだけど、その意味することがほとんど合っていないということで、これは何と言うか、それぞれがそれぞれの言葉をそれぞれの場所で、もっと極端に発言することで解消されることのようにも思われました。
 相手に話しているようで多く自らに話してしまう状態を、空霧に話しているようでも誰かに話しかけている状態へ。これが私から貴方へのひとり言、というわけで。