昨年12/21の前回イベントに続いて、1/12(日)に千葉市美術館で行われた金川晋吾さんのワークショップ関連イベントに行ってきた。
www.ccma-net.jp
前回の様子は以下。
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今回は6名の参加者に金川さんを加えた全7名が、それぞれ自分の作品の前で、それについて振り返りながらトークするというもの。金川さんは主にご自分の作品について語り、他の参加者はまず一人で簡単に話した後、金川さんが聞き手になってトークするという形式。それが全員分終わってから、まとめて質疑応答という流れ。
案内ページにはお名前も出ているので、そのまま名前と合わせて言及するが、個人的には後半に発表された森下さんと草野さんの話がとくに印象的だった。何がどう印象的だったのか、というのはなかなかスパッとは言えないが、自分が心動かされたのは、というか価値を感じたのは、伸びしろというのか、「この先どうなるのか想像がつかない」という、ある種の可能性や期待、そこには不安も含むような、その感触があるものだった。そのお二人の取り組み方、それは「無自覚な創造性」とも言いたくなるものだが、アートの面白さ、ものづくりが鑑賞者にもたらす面白さというものがそこにはあったように思う。
参加者が皆が皆、自分で作ったものを「アート」だと思っていたのかはわからないし、アートであることが良いことだと言いたいわけでもないのだが、それでも行き着くところ、このワークショップで取り組まれてきたものはアート、または美術や芸術としか呼びようのないものであり、このワークショップが持つ魅力もやはりその芸術ならではのものだと感じた。よく言われることではあるが、アートは短期的にはなんの役にも立たない。しかし長期的に見れば、あるいは俯瞰的に見れば、それまでに蓄積された大小さまざまな問題を解決するきっかけになる可能性を持っている。
具体的に言い換えるなら、ここで言う「アート」とは、いわゆるアートっぽいアート、ベラスケスとかヨゼフ・ボイスとかをイメージしながら言っているものではなくて、「知らないもの、まだ発見されていないものに向かって人類が進むための動力、またはツール」みたいなものとして言っている。その「未知なるもの」感は、この種のワークショップを語る際に言われがちな「わからなさへの指向」みたいなイメージにもおそらく関係している。
「わからないもの」は、その不安定さゆえに、ある種の人を苛立たせるが、同時に別のある種の人には希望を与える。ぼくは後者の側に属するが、しかしそれは「わからないものが好き」という意味ではなくて、その「わからなさ」があくまで『「わかる」に向かう道の途中』だと思えるから、そこに希望を感じているということだ。そして上記のお二人は、というかその取り組み方は、ぼくにその希望を感じさせた。
金川さんの作品もその同列に並べられるもので、文章も写真も実体のあるものとして掲示されているのに、具体的にどこに向かっているのかわからない、定められていない、しかしその定められていないところに面白さを感じた。その動的な感じ、それは単に右往左往しているような、痙攣的な動きではなくて、たしかにどこかには向かっていて、なおかつその方向は正しいに違いないと思われるが、しかしどこに向かっているとは明快に言い切れない、その「期待ある不確実性」とも言える雰囲気が良かった。
では、その逆側は何かというと、それは「意外性のなさ」ということだと思う。やはりそういうものは、つまらない。作り手が、自分でも想定していなかったところに、創作をすることによって進んでいく、いや連れて行かれるというような、そういう創作こそが面白いと思える。たしか保坂和志さんが、小説というのは書くことによって小説家が成長していくようなものでなければいけない、小説を書く前と後で小説家自身が変容しているようなものでなければいけない、みたいなことを言っていたと思うのだけど*1、小説に限らず、創作には常にそれがなければいけないように思う。
なお、ここで挙げなかった他の参加者さんたちの作品がつまらなかったと言いたいわけではもちろんない。実際、他にも面白いと思えるものはあった。しかし、複数の人が同じようなお題に対して何かを作ると、見る側の好みも含めて、ある程度の優劣が半ば強制的に、あるいは自動的に発生してしまうというのもたしかだ。これは作り手にとってはつらい面もあるが、やはりどちらかと言ったら面白い現象だと思える。
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写真にテキストが加わることで、写真の見え方が変わったように、その「写真+テキスト」にこのイベントで制作者本人の解説が加わったことにより、かつて「写真+テキスト」だけだった作品がまったく別の作品に変わった、という印象があった。これは、もし他の形態のアート作品だったらなかなか生じないあり方なのかもしれない。たとえば、絵画や彫刻をその作者本人がアーティストトークとかで解説して、それによって鑑賞者にとって作品の見え方が変わったとしても、その変化は「良いもの」なのかというと微妙な感じがする。
絵画や彫刻というのは、ただそれそのもの、あるいはせいぜいプレートに書かれた「作品名」までがその作品と言えるものであって、それ以外の要素は、たとえ作者本人の解説であっても、作品そのものからは切り離されたものとして普通は扱われるように思える。
しかしこのワークショップにおける作品(写真+テキストが掲示された可動壁)は、そのような通常のアート作品の見られ方、その一種のルールからは外れたところにあるように思える。このワークショップで作られた作品は、写真にテキストを付けることが元々その条件として織り込まれていたように、作者自身による振り返りイベントでの解説も、その作品の一部として自然に取り込めるものなのだと。その意味でも、このワークショップの参加者さんたちによる感想、解説を聞けたのは良かったと思う。
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最後の質疑応答で、前回はトークをする側にいた安田さんからの質問で、「嘘を書こうとは思わなかったですか?」というものがあった。参加者はほとんど皆「そういう発想はなかった」という反応だったが、嘘を書くかどうかはともかく、もし参加者の中に外国出身の人がいたら、パッと見で明らかに雰囲気が異なる壁(作品)になったかもしれない、とは思った。たとえば、皆が黒色のペンだけでテキストを書いているところに、一人だけライブペインティングのような激しい色づかいでメッセージを書きつけるとか、そういったこと。
しかし、それはたしかにひとつの制作方法として許容されるものであったとしても、今回求められている、あるいは目指されているものとは少し目的が異なっているようにも思う。今回の取り組みは、「他人と違う自分」を発見したり、示したりするために行われているのではなく、「自分でも知らない自分自身」を見つけるための取り組みであると思うからだ。もしそうであるなら、何をやっても結局は他の誰とも違うものにならざるを得ないので、他の人がやらないようなユニークな試みをする必要はそもそもない。前回の感想でも書いたことだが、作品の見た目や雰囲気が似ているということは、このワークショップに対してプラスに働くことはあっても、マイナスに作用することはないと思う。
*1:あくまで自分なりの解釈であって、そのとおりに言っていたわけではないので全然違うかも。