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NOT TODO LIST

年内に終える予定だった業務が若干ながら&残念ながら年明けに持ち越しとなった。

今年(これを書いているのはまだ2017年なので2017年)の作業はこれまでになくスケジュール管理に労力を注いだせいか、今までに比べればおそらく最も順調な進行を実現したが、それでも理想どおりの100点とまではいかなかった。やはりどこかに甘えというか、おごりがあったのだろう。

積み残したタスクは年末年始に行う予定。幸いというか、一人でできる作業は少なくなく、というか一人でできる作業だけを持ち越しフォルダに入れておいたから必然的にそうなる。

年末年始は、だから休みという感じでは全然ない。会社などに勤めていたらまた少し違うのかもしれないが、ぼくの場合はオンとオフがあるのではなくて「赤いオン」か「青いオン」か、みたいなもので、「オン」の種類が違うだけという感じがする。

楽器奏者やスポーツ選手は年末年始にも練習を休まないだろうし、研究者は研究をしていない時間にも研究のことを考えているだろう。
それと同様に、こちらも作業を続けざるをえない。

考えてみると、協業各社が休みに入る12/29から、正月休みのひとまず最終日である1/4まで、ちょうど1週間しかない。
実際には、その後に3連休があるようだけど、とりあえず上記の積み残しタスクは1/5に提出予定なので、その宿題に投入できる期間はやはり1週間ということになる。
(さらに実際には、これを書いている時点ですでにそのうち2日以上が消化済みなわけだが)

その限られた期間に充分な成果を生み出すためには、何か大事なものを諦めなければならないだろう。

以前から、「やらないことリスト(NOT TODO LIST)」というものの意義や必要性を謳う話を目にしてきたが、ぼくにはその意味がよくわからなかった。

「やらないことリスト」というのは、ようは「やらなくてもいいこと」のリストなのだろうから、そんなもの、わざわざリスト化しなくたって、重要なことだけをどんどんやっていけばそれ以外のことは自然に優先度が落ちていくのではないか? と思っていた。

しかし最近になってようやく気づいたのだけど、「やらないことリスト」を提唱している人々が言いたいのは、たぶんそういうことではなかった。
「やらないことリスト」とは、「すごくやりたいけど、やらない(ことによって、より優先的なタスクを終わらせるための)リスト」だったのだ。

ということで、ぼくはその「やらないことリスト」の筆頭にTwitterを入れることにした。

しばらくは投稿も閲覧も、可能なかぎりやめておくことにしたい。

できればFacebookもアクセスせずにおくべきだろうが、そちらは公私に関わる連絡がいろいろ行き交うのでゼロにはできなそうだ。

Twitterはめちゃくちゃ面白いのだけど、やっていると時間がどんどん吸われていくから、時間捻出というただ一点において、やはり休まざるをえないだろう。

といっても、じつはTwitterに関しては、すでに今年(つまり2017年)の半ばから地道に離脱を試みていた。

その一番の理由は、10月に再受験をした基本情報技術者試験、そして夏頃から本格化した「commmons: schola」の最新巻の制作という、絶対に成功させなければならない二つの大きなタスクが重なってしまったことだった。

それで、とりあえず7月の半ば頃からだったか、Twitterへの投稿数をぐっと減らし、8月からは閲覧時間もかなり減らしたのだった。

その後、幸いにして(というべきだろう)基本情報の方には合格して、少し安堵したこともあり、Twitterの閲覧は徐々に解禁し、ただし投稿の方は1日につき多くても3本程度までに留めるようにしていた。

上述の、「今年の作業はこれまでになくスケジュール管理に労力を注いだ」という取り組みの中には、だからその「Twitter断ち」も含まれている。

ちなみに、Twitterの投稿数を減らすのは比較的簡単であったものの、閲覧時間を減らすというのはなかなか容易ではなかった。

投稿を減らすのが簡単というのは、普段から「こんなこと言ったら不快になる人もいるかもしれないな〜」と思ってやめておくとか、あるいは数年前からアルコールを口にしてから寝るまでの間には投稿しないとか、そういう自粛みたいなことを習慣的にやっていたからだと思っている。

逆に閲覧を減らすのが難しいというのは、上記のとおりぼくにとってはTwitterで流れてくるタイムラインというものがあまりにも面白いからで、それは子供が電車の窓から流れていく外の景色をずーーっと見てしまう、あの根源的な面白さに近いかもしれないが、とにかくその次々に起こる「いま初めて発生した現象」から目を離せなくなってしまう。

とはいえ、それをやっていると本当に無限に時間を奪われてしまうから、上記の試験勉強期間などはとくに禁止していたのだけど、時々(というか頻繁に)起こる禁断症状的な、ちょっと落ち着かない、「いま世間の他人はリアルタイムで何を考え、何を発言しているのか」ということが気になって仕方なくなってしまう感覚には閉口した。

で、これを収めるためにどうしていたのかというと、本を読んでいた。

本と言ってもKindleなどの電子書籍を含むそれであり、ジャンルは海外文学からSF、ミステリー、新書やハウツー本など様々に試したが、最終的には結局ハウツー系の新書やエッセイのような軽い内容に落ち着いた。

読書の目的は深い感動を得るとか、新しい知識を増やすとかいうことではなく、とりあえずTwitterその他のSNSから離れておく、そこにアクセスする道を遮断するということだったから、いくら軽い内容でも良かったのだが、それでも最初は「ん〜、読書はメンドイな」とか感じてしまい、なかなか集中できなかった。

Twitterと読書とを比べると、結局一番大きな違いは、前者の方が読みはじめてから「快楽」を受け取るまでの時間が後者に比べてずっと短いということだろう。

Twitterを見ていると、そのつど一瞬で何かフワ〜っとした「報酬」のようなものを受け取れてしまう。
しかし、そうやって一度に得られるその量はきわめて少ないから、かゆみを掻いてかえってかゆみが増してしまうように、一度触れはじめるとなかなかやめられなくなってしまう。

読書はそれに比べると(あくまで相対的にだが)、そうした「報酬」を受け取るまでにかかる時間が長いから、最初はじれったいというか、もどかしいというか、ストレスを感じるのだけど、それに慣れてくると、Twitterに比べてけっこうな量の「面白さ」が返ってくるので、だんだん「これでもいいか」という感じになってくる。

そんなふうにして、この7〜10月頃は徐々に体を慣らしながら、Twitterから(というかSNS全般から)離れるようにしていたのだった。

前置きが長くなったが(前置きのつもりだった)、そのような方法をもって、またこの年末年始(といってもあと4〜5日だが)もそこから離れなければならないな・・と自分に言い聞かせるためにこれを書いている。

その数日間の修行というか、合宿のような期間が終わり、おそらくはそのまま1月の間もしばらく制限を続けて、ほとぼりが冷めた頃にまたゆるやかに解禁できればと思っているが、それがいつになるかはまだわからない。

なお、Twitter宛のメンション(リプライ)は1日1回ぐらいメールで届くように設定してあるので、Twitter経由で何か連絡したい人はこれまでどおりTwitter経由で大丈夫です(たぶん)。