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私(の|と)編集

こちらは「文を紡ぎ編む人たちの Advent Calendar 2022」の16日目の記事です。

adventar.org

昨日の担当は安田理央さんでした。

rioysd.hateblo.jp

モーリさんのアドベントカレンダーには過去3回とも参加しています。よかったらこの機会にどうぞ。

ふらふら

私は現在、都内の小規模なIT企業に勤めており、自社開発によるWebサービスのカスタマーサポート兼社内編集者という立場で仕事をしています。以前は10年ほど音楽全集の編集をしており、その前は・・あんまり記憶がないのですが、何もしていなかったような気がします。

美大に入って、出て、ペンキ塗りのアルバイトをして、飲食店のアルバイトをして、やめた頃になぜか本を出版し、それが出た頃に音楽全集の制作チームに加わったという感じです。基本的にはずっとふらふらしていました。

自分が文章を書いたり編んだりする仕事をするなんて、少なくとも10代の頃には想像もしていませんでした。といっても、じゃあどんな将来を想像していたのかといったら何も考えていなかった気もするのですが。ただ絵は比較的上手かったので、進むんだったらそっちか、あるいは地味な事務作業みたいのが好きなのでそっちで資格を取るか、とかそういうことを考えていた気もします。いずれにしても、文章なんて全然関係のない世界というか。

菊地さん

それがどうしてこんなことに、といったらこれは菊地成孔さんの影響が大きいのではないかと思っています。2003年に初めて自分のパソコンを手に入れて、いろんな日記サイトを見て回るようになりましたが、その中の一つが菊地さんの日記でした。菊地さんの文章は頭の中で喋ったことをそのまま文章にしたようなもので、そんなものをそれまでに見たことがなかったので、これはなかなかの衝撃、すぐに中毒のようになって日々菊地さんのサイトを訪れるようになりました。

しばらくしてmixiという、このアドベントカレンダーを読むような人にはわざわざ解説する必要もないと思いますが、その中で日記を書くようになり、気がつけばその文章がなんだか菊地さんのコピーのようになっていて、それを読んだ知り合いが「文才ある!」と言ってくれたのを今でも覚えています。たぶん文章を褒められたのはそれが最初でした。

菊地さんにハマる中で菊地さんの音楽私塾(ペンギン音楽大学、以下「ペン大」)に通うようになり、その流れで菊地さんと大谷能生さんによる東大ジャズ講義に毎週もぐるようになりました。駒場東大前駅、懐かしいですね。「東大に通った」のは後にも先にもその一時期だけです。私は29才になっていました。

当時、その東大講義の模様を毎週講義録風に振り返る掲示板(BBS)があり、その管理人はそっくりもぐらさんという人でしたが、彼がまとめた講義録を読みながら、私は自分もこれをやってみたいなと思いました。それで講義にMDウォークマンを持ちこんで録音し、当時勤めていた飲食店のバイトから帰ってから翌日のバイトに行くまでの時間を使って毎日文字起こしをするようになりました。私は当時MacBookを使っていましたが(白いやつ)、2004年頃のMacでは文字起こしをするためのソフトというのがほとんどなく、ひたすらMDウォークマンの余りにも小さいリモコンを爪の先で操作しながら文字起こしに励みました。

この成果はやがて『東京大学アルバート・アイラー』という書籍に結実し、私の文字起こしは同書の素材の一つとして使われました。しかもおまけというかご褒美というか、単行本上巻(歴史編)の巻末に掲載される菊地さんと大谷さんの対談の進行・記録・構成を任され、これは私が初めてまとめた対談記事になりました。(同書の編集はこのアドベントカレンダーにも参加されているid:junneさんでした)

大谷さん

東大講義が終わった頃、大谷さんが新たなマンスリーイベントを渋谷でスタートするというので何度か見に行ったら、「このイベントを本にしようと思うんだけど、一緒に作らない?」と誘われて共編著を出すことになりました。そんな雑な説明だとかなりの飛躍を感じますが、実際にはそのイベントの最初の何回かを私が文字起こしして自分のサイトに掲載し、その感想なども併記していたので、大谷さんはそれを見て誘ってくれたようでした。全11回のイベント採録と書籍用に行われた佐々木敦さんとの対談、そして私の日記のような感想文のような何かを加えたそれは2008年に刊行され、渋谷のパルコブックセンター、ブックファースト、新宿ジュンク堂など、いつも通っていた大型書店に並びました。PBCの平台に積まれたそれを見たときは、「もう、いつ死んでもいいな」と本気で思ったものでした。

後藤さん

それに前後して、私は生きながらにして「伝説の編集者」と言われる後藤繁雄さんの編集教室に通い始めました。きっかけは吉祥寺のブックステーション和で買った『NEW TEXT』という本がやたらポップで面白く、それは後藤さんが主宰する「スーパースクール」なる講座の講義録だったのですが、ふと検索したらまだそのスクールはやっていて、しかもちょうど新規クラスの生徒を募集中だったので即申し込んだというものでした。

スーパースクールに通ったのは半年ほどでしたが、なぜか後藤さんと一緒に生徒の前に立って講義を進行するようなケースが度々あり、そのようなことをするうちに後藤さんは私を覚えてくれたようでした。そしてスクールが終わってしばらく経った2007年のクリスマスの夜、後藤さんから携帯に着信があり、「今度坂本龍一さんのプロジェクトが始まるんだけど、一緒にやるか?」と誘われたのでした。当時、私は前述の大谷さんとの共著の追い込みのために飲食店のバイトもやめていて、この先どうやって生きていくのか、計画はまったく空っぽでしたから、二つ返事でその話を受けました。これがその後10年間続く編集作業の始まりでした。

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schola

それまでに関わった出版物、つまり東大講義の巻末対談や大谷さんとの共著は、たまたまそういう機会に引っかかった、一時的な特別な体験という感じでしたが、この音楽全集schola(スコラ)は「特別な体験」などと言って済ませられるものではなく、全国、いや全世界の坂本さんのファンが期待するであろうものとして、かなりのプレッシャーを感じました。何しろ私は音楽大学に通ったわけでもなければ演奏の経験もなく、ただ後藤さんから声をかけられて入っただけの人間でした。いや最初は巻末の年表を作るというだけの話だったのですが、何しろ私は他に何も仕事をしておらず、時間があり余っていたので、あれもやる、これもやるとやっているうちに鼎談の文字起こしやその他各種の記事も作るようになり、結果的にそういう重たいプレッシャーを抱えるようになったのでした。

ライターさんによる解説原稿の編集も担当するようになり、気がつけば私は(少なくとも他人から見れば)すでに編集者でした。ライターの皆さんに締め切りや文字数、ギャラなどをお伝えし、期日までに原稿を送ってもらい、その内容にメールでコメントを送ったり、文字校正をしたりもするようになりました。私の場合、「編集者という職に就いた」のではなく、やっていることが徐々に本の編集作業になり、結果的に「編集者として見られるようになった」ということだったのだと思います。

転職

scholaに携わって10年になろうという頃、大きな変化が訪れました。いや実際には、その数年前からすでに変化は訪れていたのですが、家族が病気にかかり、そのままscholaの仕事を続けていくのは難しい状況になったのでした。scholaの報酬はけっして少なくはなかったのですが、それでも一年中夢中になって作り続けているので他の仕事はほとんどできず、生活に余裕があるとは言えない状況でした。そしてこのままのペースで年をとって病気の家族と暮らしていくのは難しい・・という壁に直面したのでした。

すでに俯瞰してきた通り、これまではたまたま様々なラッキー要素が重なり、自分を面白がってくれる人に(救|掬)われて生きてきたので、これといって手に職があるわけでもなく、資格を持っているわけでもなく、年齢はすでに40を過ぎていました。音楽の知識も編集の経験も中途半端なものでした。もちろん、scholaの人脈を伝って次の職を探すということもできません。その中で唯一、もしかしたら役に立つかもしれないと思ったのが38才から趣味で始めていたプログラミングでした。

プログラミング

プログラミングが自分に向いているとは思っていませんでしたが、とにかくできない、わからない、何度もやっても上手くいかない、というのが面白くて時間が空いたら延々とやっていました。プログラミングはPerl(パール)というプログラミング言語を通して学びましたが、scholaの編集をしている頃から、原稿ファイルの中に存在する任意の文字をカウントするために、わざわざをそれを数えるプログラムを書きました。Googleドキュメントにでも貼り付けて検索すれば一発でわかることですが、私の目的は特定の文字をカウントすることではなく、プログラムを書くことでした。入校までの日数も毎日プログラムを走らせて数えました。カレンダーを見た方がよほど早く数えられましたが、私の目的はプログラムを書くことでした。scholaの編集でGitやGitHubを使う必要はまったくありませんでしたが、Gitを使いたかったのであらゆる原稿をGitで管理しました。そのようなことをしているうちに、最低限のプログラミングの技術は身につきました。

今の会社がそうしたプログラミングの技術を重視して私を採用したとは思いませんが、ITに対する苦手意識のなさ、ハードルの低さは考慮されたのではないかと思います。何より、私がITの会社に応募しようと思えたのは、プログラミングの基礎を身につけていたからでした。

社内編集者

今の会社で私はBtoBのWebサービスにおけるカスタマーサポート、そしてそのサービスに関わる公開ドキュメント(ヘルプ、事例インタビュー、その他諸々)の社内編集者というポジションに就いています。カスタマーサポートは電話や対面によるものではなく、チャットやメールなどのテキストによるものです。文章でお客さんの状況を想像しながらそれなりに複雑な内容についてやり取りをする、というのは編集者として執筆家の皆さんとメールのやり取りをすることとよく似ています。付かず離れず、絶妙な間合いを取りながら双方ほどよく心地よく、関係を育てていくことが肝要です。

ヘルプなどの公開ドキュメントの編集では、より直接的に前職の経験が役立ちます。というか、いわゆる編集作業と言われるもののうち、私が一番好きだったのは文字校正とか表記統一とか、そういう機械的にズレやミスを減らしていく、整えていくみたいなことで、何かの企画を立ち上げるとか、特定のテーマに基づいて執筆するとか、そういうクリエイティブなことよりも、すでに存在しているドキュメントをひたすら磨き上げていくような作業を求めていました。今の会社ではまさにそういったことこそが求められていて、ヘルプは最初にエンジニアさんが土台になるドキュメントを全部書いてくれて、私はそれをお客さんに差し出す前の品質管理、最後の仕上げをするという体制です。

scholaの頃から無理やり実践していたプログラミングの技術も役立ちました。何しろITの会社です。Gitで原稿を管理し、GitHubでプルリクエスト、マージされればサービスサイトのヘルプに公開されます。このGitを使うヘルプ編集については、2019年のアドベントカレンダーのために書いた以下で幾分詳しく説明しています。

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文章講座

会社では、社内研修のような位置づけで、カスタマーサポートのメンバーに文章講座を提供したりもしています。私が講師役ですが、上記の通り、まともに編集や執筆を学んだわけではないので、何かの学校のようにレクチャーすることはできません。そのようなことは専門の本やWeb上の記事を参考にしてもらった方が安全です。

では私はどんなことをレクチャーするのかといったら、ひたすら「自分はどうやって文章を書いているか」ということを伝えます。私にできること、私が教えられることは、かつてmixi日記で菊地さんのコピーのような文章をダラダラ書いて、「文才ある!」と言われた、あのときのような文章の書き方だけです。それは今まで誰も言葉にしていない、本にもまとまっていないしWeb上の記事にもなっていない、私だけの感覚です。

カスタマーサポートではお客さんから似たような質問が多く届きますから、以前に対応したような内容であれば、そのときの回答をコピペ、または雛形にして対応することも難しくはありません。しかしたまに初めて見るような質問が来たとき、そのような方法に慣れている人はもう対応できなくなります。私の文章講座が生きるのはそういうときです。初めて聞かれるようなことであっても、つまりこれまでに回答したことがないような質問であっても、システムの仕様をきちんと把握していれば答えはわかります。問題は、その頭の中にある答えをどう文章に変換するかということで、この方法を様々な実例とともに教えます。大切なのは、「自分の頭の中にあるものをいかにしてそのまま文章にするか」ということです。私は菊地さんの文章を無意識のうちに真似たり、文字起こしで耳から聞いた音をそのまま文字にする作業を何年も続けてきたので、そんなことは自然にできるようになっていましたが、それって普通の人にはなかなかできないことでもあるようです。どうすればそれを実現できるのか、またその過程ではどれだけ迷ったり間違ったりしても構わないのか、そうした現実的なノウハウを細かくレクチャーしています。

鏡の向こう側

初めの方でも書いたとおり、すべての始まりは菊地さんでした。2003年の12月、雪の降る寒い日に菊地さんの日記を読んでいたら、珍しく新しい生徒を募集することにした、経験不問、メールで審査、というのを見て規定の作文を一気に書いて応募したところ、50分で返事があり入学が決まりました。私の人生はこの「ペン大以前/以後」で大きく分かれます。今付き合いのある人の大半はこれ以降に知り合った人で、その前の人生は鏡の世界の外にあり、私はペン大に足を踏み入れたとき、同時に鏡の中の世界に足を踏み入れたのでした。何しろ菊地さんに初めて会ったとき、私は「あ、いつもネットの向こう側にいる人だ」と思ったのでした。「向こう側の人」とこの現実世界で会ったとき、私もまた「向こう側」に入ったのでした。

菊地さんに出会い、後藤さんに出会い、坂本さんに出会い、私はいつしかその「向こう側」の住人になっていました。言い換えれば、受け取る側の人ではなく、作る側の人になっていきました。しかし元々の目的はそんなことではなく、元々の目的は「菊地さんや後藤さんに何度も会いたい」ということでした。誰に頼まれたわけでもなく、その後の仕事につなげようと思ったわけでもなく、ただ会ってみたい人に会ってみたい、そのような人生を味わってみたいと思ってそちらに飛び込んだのでした。そしてすでに見たように、その飛び込んだ先に「文を紡ぎ編む」日々が待っていたのでした。

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本日の記事は以上です。「文を紡ぎ編む人たちの Advent Calendar 2022」はまだまだ続きます。明日の担当はYutaro Aoyamaさんです。お楽しみに!

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