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くるりの本を使わなかった

教習所。S字とクランク。いわゆる狭路の走行というのをやった。ミスはなかったが、思っていたより難しい。今日は練習で、次回が本番。明日も行くつもりだったが、雨のようなのでやめておくかも。かなりモチベーションは低い。運転自体は面白いが、一人で練習できないというのがつらい。指導員は皆丁寧だが、それでもあらゆる教習生が言うたぐいの不満はやはり感じる。曰く、指導員はもう運転の素人の感覚を忘れてしまっているので、初めてそれをやる人のことがわからない。車の運転にかぎらず、プログラミングの勉強でも似たような問題はあった。教える人は教える人でありながら教わる人にもなるということができない、ということ。年内に仮免までは取っておきたいが、どうなるか・・。

蔵書の整理をしていて、買ったまま読んでいなかった以下を読んだ。

2016年の本だから、一番新しいエピソードでも2016年の話だけど、それでも全然知らないことばかりというか、自分にとっては新しい話ばかりだった。自分にとってくるりって『THE WORLD IS MINE』で止まってる。同書ではその後のくるりの歩みが丁寧に辿られていて、どれも興味を引く。諸々追いかけて聴いてみたい。

ちなみに、この本を買ったのはscholaの16巻「日本の歌謡曲・ポップス」を作るときに資料にしたかったから。

くるりは「ばらの花」が取り上げられて収録された。しかし同巻の編集でこの本はほとんど資料としては使わなかった。この巻に限らないが、scholaの編集をしていたときはとにかく資料を集めまくった。100の資料を集めて、実際に使われるのは7とか13とか、そのぐらい。ほとんどは使われない。でも、だったら最初から20ぐらい用意しておけば足りるのかと言ったらそういうことではなく、20しか集めなかったらその中で使えるのは1つか2つぐらいしかなくなる。7とか13抽出するために100揃える必要がある、ということ。まあ、この数字はあくまで適当な例だけど。

編集者の中には、専門的なことは著者や監修者に任せて、自分がその内容に精通する必要はないと考える人もいるだろう。そうでなければこんな内容にならないと思える本は少なくないし、実際にそれで炎上騒ぎになって回収されたWeb3の本もあったっけ。もちろん、編集者は著者のような専門家ではないし、そうでなければならない必要もないが、専門家と読者をつなぐためにはある程度専門的な言葉や概念を通してその専門家たちとコミュニケーションしなければならない。scholaの編集時にも各巻の専門家がいたが、だからこそそのコミュニケーションを成立させるために、毎回膨大な資料を集めて付け焼き刃を磨いていた。