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ハスキーボイス、日本のロック、帰り道、フェミニズム、ROCA、フリルのついたスパム

通院

整形外科で、先月行った検査の結果を聞いた。なかなかショッキングな内容。命に関わるようなものではないが、そこそこ落ち込むというか、いや落ち込むは違うな、クリアな声で歌っていた人がハスキーボイスになる感じ。質が変わる。人生が縮こまるわけではない、でもやや不可逆。別の面に移動した、そこで今後は過ごしていかなければならない的な。

上記のように、そこまで深刻ではないのが救い。もっと深刻な人はたくさんいる。だから前を向くとか、上を向くとかではなく、これまでと同様に真面目にやっていこうという感じ。

その後、肩のリハビリ。理学療法士さんが音楽好きの人で、日本のロックを最近のものからちょっと古いものまでよく知っているので話が弾んだ。「生まれる前に解散してしまったバンドで好きなものがある」というので、何かと聞いたら「ジュディマリ」と言われて引っくり返った。俺、ジュディマリがTVでデビュー曲歌ってるの見てたよ、リアルタイムで*1。と言いたかったが、何につながる話でもないのでやめておいた。
ちなみに、ジュディマリだと「mottö」と「Peace」がいい。
www.youtube.com

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「Peace」のMVの監督はたしか河瀬直美さんだ。

最近の日本のロックバンドで気に入っているものもいくつか教えてもらった。名前ぐらいなら知ってるというものや、名前すら知らないものもある。それで気づいたが、自分の中の日本のロックシーンというのは2001年頃でストップしていて、その後の動向はまったく把握していないようだった。その「2001年」というのはロッキング・オン・ジャパンを買い続けるのをやめた年で、表紙にバンプ・オブ・チキンあたりが出始めた頃。バンプが悪いという意味ではもちろんなく(どちらかと言えば好きだ)、ただその頃から「こっちはもういいか」という感じになった。洋楽中心のスヌーザーは2002年頃までは買っていたが、やはりそこで毎号買うのはやめてしまった。新しい音楽を追い続ける、ということがそこで終わったということだ。初めてインターネットに接続したのが2003年とかだから、それとも関係しているのかもしれないが。

しかし後半で紹介するドン・マツオとタナソーの対談の中で、タナソーが「音楽批評は結局ジャーナリズムであって、文学批評や映画批評のように学術研究として構築することはできない」と言っていたことを引き合わせると、そのジャーナルとしての音楽情報を追わなくなったというのは、大きなものを失ったということだったのかなとも思う。ぼんやりと好きなものを、ただぼんやりと聴くのではなく、今この瞬間の音楽はどうなっているのかを知る、聴くということの価値というか。まあ、それは広告や商品としての音楽にまみれていくことをも意味するのかもしれないが。

水と轢

『水と轢』を読み終えた。よかった。もう感想は散々書いたのでこれ以上は書かないが、おかげで少し本を読む習慣が戻りつつあるような気がする。筋トレと同じようなもので、読書もそれをするための基礎体力・準備・態度みたいなものが求められる。それがあると、無駄な調整時間を経ずにすっと読書に入っていける。

「本を読むのも技術が必要ですから」というようなことを、以前に批評家の石塚潤一さんから聞いたのをまだ覚えている。どこかからの帰り道が途中まで一緒で、並んで話しながら帰る中でそういう話をした。菊地さんのイベントからの帰りとか、そういうときだっただろうか。だとすれば、2005年頃とか。もう20年近く前になるけど、まだ覚えている。「そうなんだ・・」とじんわり驚いたのが、その後もじわじわまだ染み続けているという感じ。

そのように「帰り道で話しながら一緒に歩く」という行為は豊かだ。とくに、それが限定的であるときほど。普段別々の場所で暮らしている人たちが、ある瞬間、たまたまほんの少しの間、強制的に同じ空間で過ごす。岸野雄一さんから、映画美学校の音楽講座の生徒とペンギン音楽大学の生徒でなにか交流できないか、場所は提供するから、といった話をもらったのも『大谷能生フランス革命』という渋谷アップリンクでのイベントの帰り道だった。アップリンクから渋谷駅までの距離は15分ぐらいだっただろうか。あの時あの場にいなければ、その後に多くの時間を過ごすことになる京橋・片倉ビルの映画美学校(今はもうない)での時間もなかったということだ。帰り道には何かが起きる。しかし、そのようなことが自分にはあとどれだけあるだろうか。

私がフェミニズムを知らなかった頃

病院の帰りに、いつものくまざわ書店で小林エリコ著『私がフェミニズムを知らなかった頃』を買った。

なかなか重そうな内容というか、読むには体力を使いそうで最初は「とりあえず見るだけ」と思って棚から取り出したのだが、帯文の上野千鶴子さんの文言を見て「なるほど」と思い、続いて清田隆之さんの帯文を見て「なるほど」と思い、じゃあ買うか。と思ったのだった。お二人の帯文は以下。

小林エリコさんは団塊ジュニア世代。団塊世代の私たちが育てた子どもだ。女の子からここまで自尊心を奪い、男の子がここまで自己チューにふるまう社会を私たちは再生産してしまったのか。でも、これは高い授業料を払ったけれど、「もう黙らない」ことを学んだ女性の闘いの記録。──上野千鶴子
 
俺たち男こそ耳を傾けるべきだ。ジェンダー格差と自己責任論が作り出した、この地獄に加担しないためにも。──清田隆之
 
私がフェミニズムを知らなかった頃 | 晶文社より)

上野さんはかなり多くのフェミニズム本に帯を書いていると思うけど、そのどれもがきちんと内容に応じた簡潔かつ的を得たもので、見るたびすごいと思う。実際、今回も「上野さんは何を書いているかな」というのを読みたくて帯に目を留めたようなところがある。
しかし実際に「買おう」と思ったのは清田さんの上記を読んだからで、自分が普段考えていることをそのまま言っている、と思った。このブログの中でも、以前にチェ・スンボム著『私は男でフェミニストです』を起点に似たようなことを書いている。

これは責任なのだよな・・ということ。男の。逃げるわけにはいかない。

ROCA

いしいひさいちさんの話題の漫画『ROCA』を注文した。
www.ishii-shoten.com

とり・みきさんがTwitterで紹介したのがきっかけになったのか、とにかく入手に時間がかかるようになってしまっているが、待っていれば希望者には届くようなのでとりあえず注文だけ完了させて待つことに。

じつは発売当初に買えるタイミングはあったのだけど、朝の仕事が始まりそうだったので「あとにしよう」と思ったらその後はいつ見に行っても品切れという状況になってしまった。
上記の特設サイトもけっこう充実しているので興味がある人はどうぞ。

フリルのついたスパム

以前にAmazonのセールで買ったものが大遅延かつ箱破損で届いたことがあって、このようにツイートしたところ、

このようなレスがついた。

最初は「サポートさんは頑張ってるな、とくに返事することもないけどいいねぐらい付けておこうか」などと思ったものの、なんだかそれも違和感があってスルーしていた。

それが今日、突然その違和感の正体がわかった。これはスパムなのだ。相手が誰であれ、キーワードで検索して引っかかったものにパターン化された文言を投げつけているだけだ。そうやって、Amazonへの不満を少しでも弱めたいと思っているだけで、べつに客に共感しているとか、システムを改善しようなどという目的でそれをやっているわけではない。
もしシステムやサービスの改善を目的としているなら、こんな毒にも薬にもならないツイートを投げつけるのではなく、具体的に何が問題だったのかをヒアリングするとか、現在どのような対策を講じているのかとか、そういった話をしなければいけない。実際、元のツイートでは「業者に罪はない、システムの問題だ」と言っているのに、このレスでは遅延や損壊について詫びている。つまり、読んでいないのだ。キーワードに引っかかったものに対してテンプレ文言を投げつけているだけで、悪質なダイレクトメールと変わらない。というより、悪質な行為そのものだ。

以前、岡崎京子の何かの漫画で、「フリルのついた暴力」というフレーズがあった。それにならって、これを「フリルのついたスパム」と呼びたい。
こんなことにリソースを費やしているかぎり、Amazonの発送業務が改善されることなんてないだろう。

今日のズボンズ

  • ZOOBOMBS - Superman

ZOOBOMBS - Superman - YouTube

www.youtube.com
上の方で少し話したもの。ドン・マツオさんのYouTubeチャンネルで展開されている対談(鼎談)シリーズのひとつ。まだ前半しか見ていないが、タナソーさんは「Cut」とかの編集をしたくてロッキング・オンに入社したのであって、音楽記事を書きたかったわけではなかった(むしろ書きたくなかった)と言っているのが面白い。広告収入を爆上げして会社に貢献したのに、ロッキング・オンでは良い記事を書かないと人として認められないという話も(これは別の所でも聞いた気がするが)。

あとは「俺は責任というやつが嫌いなんだ。それをやると間違ったことになる」という話も印象的だったが、しかしそこで言う「責任」というのは、そのように「取らずに済むなら取らない」ということができるものではない気もする。無頼を気取って放り投げられたそのゴミは、同じ場にいる別の人が拾うことになる。その拾った人が放り投げたゴミを、無頼の人が代わりに拾ってあげるならともかく、そうでないなら単なるフリーライドだろう。無視された「責任」は自然に消滅するようなものではなく、ただ別の場所に移動するだけではないのか。

*1:たしか「eZ a GOGO!」。