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文章の読み書き、自宅で腹筋、Kino

また3時近くになってしまった。やることが多すぎて、時間が足りない。水曜には有休を取ったので、そこである程度は休みたいが・・。

文章力を身につける

仕事先で文章講座みたいのをやっている、ということは以前にも書いたが、つくづく思うのは、良い文章を書くための力というか、能力というか、そういうのは長年の積み重ねに左右されるということだ。それも残酷なほど、明らかに。数週間、数ヶ月ちょろっと教えた程度で変わるようなものではまったくナイ。じゃあ、その講座に意味がないのかといったら、もちろん意味はあるのだけど、少なくとも「薬を飲んだから熱が下がった」みたいに即物的な成果が出るものではないということ。じゃあ何が身につくのかと言ったら、自分がどの程度の力なのかを評価できるというか、ある意味で「思い知る」ことができる。それまでは、良い文章とはどういうもので、自分はそれをどの程度できるのか、という尺度すら持てないのだから。

それをやりながらいつも言ったり、思ったりするのはとにかく文章とは「流れ」がすべてだということだ。水が上から下へ流れていくように、文章には流れがある。1行30文字の文があったとして、その中の22文字目、7文字目、15文字目、という順番で読む人はいない。飛ばし読みや読み返しをする人がいるとしても、その前提にはやはり「1文字目から最後の文字までを順番に読む」という約束事がある。人はそうやって「流れ」に沿って、あるいはその流れを自ら作りながら、文章を読んでいる。この流れとどのように付き合えるか、というのが文章の読み書きの力を左右する。それはセンスとか感性とも言える。センスのある人は、別に何も言わなくても「流れ」を捉えている。逆に、流れを捉えられない人に「それが流れだ、捉えろ!」と言っても、「どこ?」と見回しているうちにそれは目の前から過ぎ去ってしまう。そもそも、教えられるようなことではないのだ。

では、それを後天的に学ぶことはできないのだろうか? いや、そんなことはないが、前述のとおり、それには「時間がかかる」ということ。それも、めまいがするほど長い時間がかかる。ダイエットだって数年やれば成果が出るだろうが、この取り組みは数年程度では成果は出ない。しかも、すこぶる面倒くさい。時には、不快なほど煩わしく、苦痛ですらある。それでもやる、という人にはいずれ実りが訪れるが、実りを待っている間は訪れない。待っている間は、訪れないのだ。期待を裏切られ、諦め、やがて忘れた頃にわずかな成果を発見する。もはや喜びすらない。そんなものはとっくに枯れ果てた・・という、そんなにもつらい修行である。それでもやる、というかできる、むしろやりたい、みたいな人にだけそれは身につく。考えてみれば、どんな世界だってそうだろう。

日記

とくに変わったことはない1日。朝食はほぼ抜き。バウムクーヘンと豆乳。

昼飯は自作の丼。ボウルに入れたご飯に納豆、目玉焼き、サンマの缶詰、ネギなどを盛って混ぜて食べる。筋トレを始めてからやるようになった。これのおかげでわざわざ外に買い出しに行くこともなくなった。高タンパク低脂肪。
目玉焼きはフライパンを使うのではなく、やや深めの皿に卵を割って、ラップをして500wで40秒。すると半熟の目玉焼きができる。生に近かったら5〜10秒程度追加で温めるが、この辺はお好み。丼の最後にその玉子を乗せて、しょうゆとごま油をひとたらしずつかける。

今日は同僚が1人有休だったので、仕事は若干立て込んだ。まあ、実力を発揮しやすくて、これはこれで面白い。しかし疲れたようで、終わってから2時間ほど泥のように眠った。

起きてから少し家事。本当は資源ごみを出すつもりだったが、寝る時間を優先してやめておいた。次週に期待。

夕食後、久しぶりに自宅トレ。アジャスタブルベンチに寝て、腹筋を鍛えるレッグレイズ。こういうやつ。(12:05頃から)
youtu.be

以前は10回やるのも大変だったが、15回を3セット。後半2セットはさすがに結構汗をかいたが、負担はそれほどナシ。やはり少しでも体を動かしておく、というのは良い感じ。今後はもう少し自宅トレを充実させたい。

風呂に入って、まったり雑誌を読んで、寝る前の家事をしてから筋トレブログ、韓国語ブログを書いて、最後にこれを書いている。

そういえば、ここ1ヶ月ほど酒を飲んでいない。これも筋トレの影響。我慢しているのではなく、飲む方がつらいことに気づいたのだ。この話はまたあらためて。

明日は友人にオンライン飲み会の候補日を渡さなければいけない。今日、返すつもりだったが暇がなかった。

昨日(7/31)の日記はじつは午前にそこそこ書いておいて、寝る前に残りを書く・・というつもりだったのだけど、寝る前に書いたものと午前に書いたものとでだいぶトーンが変わってしまって、読みづらかったので午前の分はほとんどカットした。最初の文章の話に戻るようだが、ぼくはけっこうこの「トーン」というのを文章にせよ何にせよ、ものを作るときに意識している感じがする。といっても自分で考え出したものではなくて、むかし佐藤雅彦さんの「Kino」という作品を買って見たときに、付属ブックレットにそういうことが書いてあった(気がする)。