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読書、文章を教える

読書

昼休み、業務後、食後に末井昭さんの『自殺』を読む。最初はつまみ読みで、そのうち最後まで一気に。まだ前半の方は読んでいない部分が多い。最初から最後まで1本道をたどるように読むのが苦手。仕事をしているよう。順番にではなく適当に読むのがいい。そういう読み方に合っていた感じ。

とにかくこんなに読みやすい文章がこれまでにあったか、というぐらい読みやすい。読みやすい文章は水を飲むように読めるが、これはもう水ですらなく、息をするように、空気を吸うように当たり前に頭に入ってくる。驚きのリーダビリティ。すべてです・ます調の敬体なのに、まったくまどろっこしくない。自分を大きく見せない文章。文章のスタイルというより、その文章の前提が読者(というか私)に安心感を与え、読みやすさを作っている。

一旦最後まで読んで(前半は未読だが)、そのまま神蔵美子さんの『たまもの』を見たくなって本棚から取り出してひとしきり読んだ。

*文庫になっていたのか、知らなかった。自分が読んだのは大判の写真集。

音のない写真と文章。ページをめくるたびに、今ではないどこかに連れて行かれる。会ったこともない、話したこともない人たちの営みに遭遇し、そのまま取り残される。

仕事

今日から会社の人たちに文章作法みたいなことをレクチャーするという企画が始まり、普段どのようなことを考えて文章を書いているか、みたいなことを話したり、質問に答えたり。どんな仕事やねん、という感じだが、そういう仕事。ほんの30分程度だけど、面白かった。

文章は流れがすべて。自分が好きな流れをデザインする。ボブスレーのコースを作るようなもの。どこに高低を作るか、どこのカーブをゆるやかにするか、キツくするか、流れをけっして止めない。停滞させず、流しそうめんがずっと流れ続けるようなコースを作る。

自分の文章を客観的に読み直すには?という質問。答えは、場所を変えるか、時間を変える。
エディタで書いていたものをGoogleドキュメントにコピペして読み直す。またはPCで書いていたものをスマホで読み直す。文章の置かれている場所が変わると見え方も変わる。読み手がそれまでの自分ではない誰かになる。場所を変える、とはそういうこと。
時間を変えるというのは、少し時間を置くということ。休憩する。途中でなにか別の作業を挟む。そして戻ってくると、やはり別の自分になっている。否応なく客観的になれる。