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筋トレしかしてない

筋トレなんて自分には一生関係ないと思っていたが、気がつけば今日でちょうど半年が過ぎていた。

会社の人たちがけっこうな割合でジムに通ったりその話題をしたりしていて、あたたかい目で見守っていたのだけど、それがじつはじんわり音もなく自分の中に浸透していたようで、しかし直接のきっかけは近所にパーソナルトレーニングのジムができたことで、あんまり近いので行ってみることにした。

直接のきっかけは近所にジムができたことだったが(雨でも苦もなく行ける距離)、やはりというか、ちょっと気になっていたのは年齢だった。ついこの前まで30代とか、38歳とかだと思っていたが、今や40歳より50歳の方が近くなってしまった。まさか自分がそんな年になるなんて。

いや、年齢はいいというか、問題は動きの方で、ふと周りを見渡すと、自分より年上の男性たちの歩き方がすごくのろい。のろいというか、遅いというか、動けていない。ぎしぎし、みしみしと無理に移動しているような、車輪が錆びてしまった台車のような、押しても動かない、腕力で無理やり動かしているような重さを見て取れる。あれは普段動かないから、ああなるのではないか、そして普段動かないと言ったら、俺ではないか。とかそんなことを薄々思っていたというのが、直接的といえば一番直接的な理由だったのではないか。

というわけなので、ジムといっても筋肉をつけたい、ボディメイクしたい、というような理由よりは、もっと切実で、悲しげというか、悲壮な面持ちで、もう助けてくださいというぐらいの勢いで通ってみたのだったけど、何回目かのトレーニングからだんだん重り(ダンベルとかバーベル)を持つようになって、それまでは体操とか動的ストレッチとか体幹とか腹圧みたいなことばかりやっていたんだけど、その重り系に入った頃から、なんというか、「いいじゃん」という感じになってきた。

「食事も大事なんですけどね(トレーニングだけじゃなくて)」と、コーチは初めの頃から言ってはいたが、「なるほど」と聞きつつも、しかしすぐにどうするということもできないしなぁ、などと思っていたのだけど、とくに食事をどうこうする前の段階から、なんとなく腕立てなどもするようになり、するとハッと気がつけばもう胸の外側からなんだかムクっと膨らみ始めていたりして、「うわ何だこの変化!」というその静かな驚きが、「いいじゃん」の一部だったりした。

腕立てをなんとなく始めたのは、そのムクっをより大きくしたいみたいなことでは最初はなくて、ジムでバーベルのベンチプレスをまったくと言っていいほど持ち上げられない、その持ち上げられないのが悔しいとか以前に痛い、つらい、息もできなくなるほど体が苦しく、耳も遠くなってきて、何これ死ぬのでは、みたいになりながら実際つぶれたりする経験をして、「せめてあと数回はつぶれずに持ち上げたい、だってあんなに痛くて苦しいの、イヤだから」みたいな欲求を、これも切実としか言えないレベルで感じて、そうなったらもうウチにはダンベルもないし、とりあえず腕立てするしかないじゃん、と思ってやり始めたのだった。

するとなぜかというか、当然のようにというか、コーチは「ボーナスタイム」みたいに言うのだけど、始めたばかりの初心者はとにかくみるみる成果が出るものらしく、毎日腕立てをしているだけでけっこう持ち上げられる重さが増えていった。この変化もまた、なんというか、「いいじゃん」の一部だった。

「努力が報われるのは楽しい」というような、概念的な喜びというものでもなく、「ボタンを押したら音が出た」というような、物理的で動物的な驚きというのか、それまで存在していなかった何かが突然目の前に現実化する、それが面白いと感じられる。腕立てとか腹筋とかはもちろんそれなりには苦しいが、それ以上に誰に許可を取る必要もなく使える「自分の体」という素材を使って、毎日のようにその「実験」をできるということがつまりは筋トレの面白さなのではないか。その「誰に許可を取る必要もなく」というところに人生で最も重要なものが含まれている。それは「自由」であり、自由を感じながら、さらなる自由を貪欲に獲得するためにトレーニングをしている、みたいなところがある。