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かけがえのある人

日帰りがつらい移動のときは、結構カジュアルにビジネスホテルを取って泊まる。体の負担が減るし、頭の中も休ませられる。外食よりも一人で静かに食べる方が好きだから、夕食はテイクアウトやスーパーの惣菜などを買うことが多く、この時にビールやスナック菓子も一緒に買ってホテルに帰る。ビールは350缶を2本ほど、スナックはポテトチップス的なもの。ポテトチップスはひと袋全部食べることはないから半分ぐらい残すことになるが、大抵の場合はこれを留める輪ゴムがない。値段にしたら120円の半分ぐらい、60円程度なのだから、そのままゴミ箱に捨てたって良いのかもしれないが、すぐに捨てるのも忍びなく、とりあえず輪ゴムで留めておきたいのだがその輪ゴムが手元にない。

ぼくはその輪ゴムのような人になりたい。べつにオシャレな輪ゴムである必要も珍しい輪ゴムである必要も強烈な弾力を持つ輪ゴムである必要もなく、ただ目の前の食べかけのポテトチップスの袋を丸めて留めておけるものであればいいのだが、普段わざわざそんなものを持ち歩かないから、だらしなく開いたままのポテトチップスの袋を眺めながら途方に暮れてしまう。そんなに欲しいならホテルのフロントに頼んで持ってきてもらったっていいのかもしれないが、さすがに「輪ゴム1本持ってきてもらえますか」とも言いづらい。言えるとしても言いたくない。「こんな時に輪ゴムがあれば・・」とよく思う。そんな輪ゴムに私はなりたい。

そんな輪ゴムは非常に価値が高い。なんのブランドである必要もないたった1本の輪ゴムの価値がなぜそんなに高いのかと言ったら、「その瞬間に限って確実に有用だから」だ。時と場所が正しければたった1本の輪ゴムがものすごく大切なものになる。この「なんのブランドである必要もない」という点が非常に重要で、どんな家柄でもどこの大学を出ていても構わず、男でも女でもそのどちらでもない人であってもまったく問題なく、ただ正しいときに正しい場所にいるだけで他の何よりも必要とされ、その存在によってものすごく喜ばれる、役に立つ。そういう人でありたいとよく思う。

1本の輪ゴムでさえあれば良いので、いくらでも替えが利く。自分でなくてもいい。同じことをできる別人でもまったく構わない。本当の価値は、自分自身という存在にはない。その状況、自分を含むその状況全体に意味があり、価値がある。その時、その場に自分がいることにより、ただそのことにより喜ばれるということ。オニギリありますか、くれませんか、と言われたときにめちゃめちゃオニギリを持っていたら、タダであげる。のどが渇いて死にそうだという人の前を通ったときにめちゃめちゃ水を持っていたら、タダであげる。そのとき僕はめちゃめちゃ喜ばれ、感謝されるだろう。

レイモンド・カーヴァーの短い詩に、こんなのがある。

おしまいの断片 / レイモンド・カーヴァー (訳・村上春樹
 
たとえそれでも、君はやっぱり思うのかな、
この人生における望みは果たしたと?
果たしたとも。
それで、君はいったい何を望んだのだろう?
それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって
愛されるものと感じること。
 
LATE FRAGMENT by Raymond Carver
 
And did you get what
you wanted from this life, even so?
I did.
And what did you want?
To call myself beloved, to feel myself
beloved on the earth.

べつに輪ゴムでなくても、目玉クリップとかでもいいんだけど。ちょっと今、この時だけ、目玉クリップが欲しいんだけど!みたいな瞬間がありませんか。ぼくはある。一瞬ここ押さえといて、すぐ戻ってくるから!みたいな時、ありませんか。ぼくはある。その「一瞬ここ押さえといて」と頼まれる人に私はなりたい。自分以外の誰にでもできる何か、替えの利く人間として何かをやって、人に喜ばれたいということ。そのような価値観がたしかにある。