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年末年始の記憶、日記にまつわる可能性

  • 昨日金曜(12/27)に仕事納め。会社員になって二度目の年末。
  • 昨年はそれでも掛け持ち期間というか、フリーの頃に引き受けていた仕事がまだこの時期は続いていて、どちらかというとそのピークというか、12月・1月・3月ぐらいに分割して入稿的な作業があったので、まったく年末感はなかったのだけど、今年はそういうのがないので、ほんとにどれだけぶりか、というぐらい物凄い久しぶりに外的なタスクというのがない。
  • 外的なタスクがなかったら何があるのか、といったらプライベートの方ではまあ、家族人としてのタスクみたいなことは結構あって、それはそれで忙しいのだが、それでも他人との約束事、とくにライティングや編集のような、その向こうに大勢のお客さんや関係者が腕組みをして待っているようなお仕事がナイというのは、やはり精神的にだいぶ違う。
  • 去年までの場合、むしろというか、年末年始というのは仕事の濃度・密度が高い時期で、大体クライアントというのは会社勤めの人がほとんどなわけで、彼らは12/26とか28とかで納まって、翌年の1/4とか6とか8とかから再開するわけだけど、その間にはパッタリ物事が止まるので、それが受注側からすれば安心感につながるというか、具体的には集中を阻害するような突然の連絡とかが来なくなるので、作業にかなり没頭・沈潜できたりする。
  • とくに、scholaの仕事ってなぜか年明けに印刷所へ入稿するようなケースが多く、だから3月末とかにリリースされるわけだけど(というか年度末のそこから逆算して入稿の締め切りが年明けになるということなんだけど)、ともあれそういうわけで僕的には原稿のかなり終盤の大事な作業を一気に年末年始で精錬・洗練して、それでできたものを年始にバッと印刷所へお渡し、みたいなパターンが多かった。
  • あとは何度か年始にscholaの座談会をやるようなこともあって、そうなると年末年始にその準備というか、リサーチみたいなことをしておく必要があり、というのも役割的に座談会の進行というか、話の途中で流す曲をこちらでPCに準備しておいてその話題になったらサッと流す、みたいなこともあったので、そういう時にすぐ対応できるように広めに勉強しておく、という感じで、そんな風に書きながら思い出すと、それなりに胃が痛くなるような日々を過ごしていたなと思ったりもするけれど、かつ実際には、なかなかそう上手く準備していたものが使われることもなかったり、逆に話題に出たものを準備できていなくて悔しい思いをしたり、という失敗の経験ばかりが思い出されてしまうのだけど・・。
  • ともあれそんな年末年始ばかりだったから、こんな風に何も考える必要がないのは久しぶり。まあ上記のとおり、プライベートではいろいろとあり、それはそれで大変なわけだけど、でも今までにあったそういうのは無くなったなあ・・と。
  • ただscholaや編集仕事が無くなったとしても、ちょっと気を抜くとぼくは「それ手伝いますよ」とか「これやっておきましょうか」とか、調子よく引き受けたり提案したり、立候補したりしがちなので、たとえばITカンファレンスで発表するとか、あるいは面白そうな雑誌に寄稿するとか、そういうのを簡単に受けがちなので、まあたしかにそういうのが自分を高みへ引き上げることは否定できないものの、しかしやっぱりそれ、やりすぎると本当に自分がやりたかったことって、それで良かったんだっけ、限られた人生、それでも大丈夫だったんだっけ、とか思わなくもないので、やはり気をつけないと、とは思っている。
  • さてこのような、何ということもない日記を、これからは、もっと少ない分量でも良いからたまに書いていきたいなあ、と思っている。これはたぶん、少し前からフヅクエというお店の店主である阿久津さんの日記を、彼のメルマガで読み始めて、その影響がすごくある気がしている。

fuzkue.com

  • 阿久津さんのことは、その日記本の存在ごと以前から知ってはいて、気にもなっていたのだけど、

  • 最近ふと、本当にどんなきっかけがあったというわけでもなくあらためて気になって、Webサイトを見るうちにこれ、メルマガ読んでおくべきでは、それもお金を出して読んでおくべきでは、と思ってそれで読み始めていて、それがすごく良く、また読みながら、「これって自分でもできるかもなあ」と、別に同じことをしたいという意味ではなく、なんというか自分なりの仕方でできるかも、と思って、ということ。
  • 「自分にもできるかも」なんていうと、ちょっとその阿久津さんの文章を軽く見ているように思われてしまうかもしれないが、そうではなく、まだやってもいないことを「できるかも」と思わせることができるというのは物凄いことで、それはサッカーとかのスポーツ選手が普段から子どもたちに対して成し遂げていることで、「これって自分でもできるかも」と思わせるというのは、誰にでもできることではまったくない。すごい才能だと思う。
  • 阿久津さんといえば、元々その存在を知ったのは内沼晋太郎さんがいたからで、内沼さんとは直接の面識はないけれど、もちろんというか、彼はぼくをscholaに招いてくれた後藤繁雄さんの教え子というのか、僕からしたら兄弟子のような人で、だから以前からその活躍は知っていたけれど、その内沼さんが最近は「日記屋」という話をよくしていて、

bookandbeer.com

  • なるほど、日記か、日記くるのか、みたいな感じでそれもあって、かつちょうど最近よく特定のタイトルを付けてブログを書くのが何となく面倒になり、日付だけのタイトルで、その時点で思っていることをメモしておく、というブログのスタイルを時々試していたこともあって、いろいろ重なりつつそういうのを始めているという感じ。
  • そういうのを、べつに毎日じゃなくても、とはいえそれなりに頻繁に続けられたらいいんだけどなあ、という。
  • 何も書くことがなくても、何もしていない日、何も考えてない日というのはあまりないので、ほとんど何もないまま、考えないままとりあえず書き始めるというのはイイのではないかな、と。
  • それは実際には、たぶんルーティンの「きっかけ」として大きめの意義を持つ可能性があり、それはひとつの「出口」のようなもので、たぶん僕の中には出口を求めながらもそれがないから、というだけの理由で外に出ていかない、そしてそのまま失われていくだけの「何か」があるように思われて、それはなんというか、せっかく福岡に行ったのに、福岡に行かなければ絶対に買うことができなかった何かを買わずに帰ってきて、帰ってきてから、「ああ、あれが欲しかったのに」と気づいて、でももう福岡にはいないし、取り寄せとかも不可能だから結局「そこにいるときに買うしかなかった」ということを思い知りながらただ諦めるという、そんな感じで「その時じゃなかったら絶対に表現できない、表現されうる何か」というのがあるはずで、そういうのを表現する可能性が少しは高まるんじゃないかなあ、みたいなことを考えている。