うううううるとらサムイ! ウチの構造とか建材の問題もあると思うけど地方的な意味でこの時期マジやばいって。暖房がたんほうぐらいにしか効かない。
宮崎貴士さんの日記にてなんと・・・仏革(と私)を非常に良いように触れて頂きまして、私はその記事を昨夜(1/12〜13にかけての日付がちょうど変わる頃)に電車のなかで見て「ああ、なんてことだろ」と融けるかと思いました。宮崎さん、ありがとうございます。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=323661&log=20090112
宮崎さんの日記は面白いです・・・。
「大谷能生のフランス革命」には西島大介さんやばるぼらさんや岸野雄一さんや佐々木敦さんや宇波拓さんや冨永昌敬さんや杉田俊介さんや岡田利規さんやRIOW ARAIさんや(音がバンド名)こと川染喜弘さんと小林亮平さんや小川てつオさんや狩生健志さんや志人さんが登場され、たくさん喋ったりパフォーマンスされた模様をかなり収録しています。(順不同)
- 作者: 大谷能生,門松宏明
- 出版社/メーカー: 以文社
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たぶんさっきぐらいに更新されたのでは、と思うのですが細馬宏通さんの日記で岸野さんと細馬さんの対談記事の一部が紹介されているのでリンク。
http://12kai.com/diary.html#20090113
上記フランス革命とnu2号、あわせて読む案いかがでしょうか。
- 作者: nu
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あー、そう、それで思い出した。だからたぶんその一番わかりやすい違いっていうのは、「誰がジャッジするのか」ということで、じつは作るっていうことのジャッジマンって誰なのか、あるいはそうではなくて、上で言ったようなキリのない消費におけるジャッジマンとは誰なのか。後者のそれはやっぱり他人で、前者のも他人なんだけど、それはなんか後者のとは違う他人なんじゃないだろうか。作るときに想定している他人というのは自分とも同化していて、だからそれである意味一人でもやろうと思えばできなくはないとかあるのかもしれない。誰に向けているのか、とか、どうしてやっているのか、といった時に、それをやること自体をやりたいのだ、とかした時に、それもやはり他人に向けてやっているのだが、後者の他人とは違う他人。わかりやすく喩えれば作っている時に想定しているのはもう死んだ人とか遠く離れた地域に住んでいる会ったことのない(会いようのない)人とかこれから生まれる人を当たり前に含めた中での自分みたいな人で僕の場合、まあ便宜的に、だけど、そうだと言ったときに自分で考えるとか判断するとか、そこの最後の最後は譲っちゃいけないんじゃないか、あるいは譲らなくてじつはOKだったんじゃないか、とかなった時に比類なくラクになった気がして、でもそれはかなーり微妙に長い時間をかけてなっていったような気もして