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外国語学習について

日本語のコレは韓国語だとなんと言うのだったか・・ということはたびたびあり、頭の中のおもちゃ箱のような、それが埋まっているはずの雑多な単語集の中からソレを引き当てて、よいしょと目の前に持ってきて「韓国語ならコレが該当する」と差し出す。ということを繰り返すうちに、それらは常に1対1のわけではないが、それでも大体対応できるようになってくる。

基本的には、この「検索→見つける→持ってくる」の一連の動作のスピードが上がって、それをしていることすら忘れていくようになる、というのが外国語学習のある種の最終形というか、言語を獲得するまでの過程ということになるのではないかと思うが、同様のことは母国語に対してでもあるわけで、「えーと、ほらこの曖昧な感覚、たしかちょうどうまく言い当ててる表現があったはずだけど・・なんだっけあれ、含羞?薀蓄?韜晦?」みたいに、普段の生活ではあまり使わないが時々その表現でしか言えない感覚にばったり行き当たることがあり、この言葉ってこういう時に使うのか、便利!みたいに思うことがある。

言葉は言葉でなかった何か(というか感覚や考え)を他人に共有するときに必要になるパッケージというか、仮の形象・物体みたいなものだと思うが、「いやいや、そういうことを言いたいわけじゃないんだ」的な、元の感覚とは全然異なる仮象にその伝達を託してしまうと、その誤解を解くのがまた大変なことになる。

「暑い!」という感覚を他人に伝えたいときに、ひとまず最低でも「暑い」という表現をひとつ覚えておけば何も言えないよりはマシではあるが、どんなふうに暑いのか、ということは毎回必ずちょっとは違うはずで、そのちょっとの違いを表現したいと思ったらいくらでも他の表現が必要になってくる。
これはコンビニのドリンクコーナーで「何か炭酸が飲みたい」と思ったときに全部コーラ(レギュラーの)だったらどうなのか、ということに近くて、全部コーラでも炭酸が何もないよりはマシかもしれないが、やはり個人的にはカロリーオフのコーラがあった方がいいし、そう思う人が増えてきたからそういうコーラも並んでいる。

そう思う人が増えてきた、と今書いたが、実際にはそう思う人が増えてきたのではなく、そう思う人は昔っからいて、つまり「もっとなんか甘くなかったり、砂糖が入ってないコーラがあればいいのに」とは思っていたが、その自分自身の欲望に気づいていなかったり、気づいていても諦めたりしていただけで、そのニーズを拾って商品化した人にしても、初めから売れる見込みがあったわけでもなく、トライアンドエラーを繰り返す中でようやく「やっぱりカロリーオフのコーラ(というか炭酸飲料)を飲みたい人もいたんだ」と確信できたということだろう。

同じような話を続けてしまうが、ぼくは以前からアルコール度数が低いサワー系のお酒があればいいのにと思っていたが、ちょっと前までは9%とかの低価格でバッチリ酩酊できますみたいなものが隆盛で辟易していたが、最近になってようやく5%未満の3〜4%ぐらいのお酒の種類が増えてきた。しかしこれもまだ好みからはちょっとズレていて、今はそういうものだと女性向けというコンセプトなのか、フルーツ系の甘ったるいものが多いから、もう少しドライで苦味があるようなものでそういう低めの炭酸酒があればと思っているし、そういうものもきっとそのうち出てくるだろう。

こういうことを言うと、「そんなものトニックウォーターとかで自分で割れば十分だろう」といった代替案が出てきがちだが、わざわざ手間をかけてでもそれが欲しいという話ではなく、今メジャーなものが持つ便利さやアクセスのしやすさを、やがてはマイナーで微妙で曖昧なものも獲得していくという話。この流れは不可逆で、今後すべての炭酸系ドリンクがレギュラーコーラに一本化されるとか、発泡系のお酒がビール1種類のみになるということはありえないので人間がそういう多様化を求めている。

絵を描いていて紫色を使いたいと思ったときに、紫色の絵の具がなければ赤と青を混ぜるだろうが、初めから紫色が用意されていたらそれを元にした方がイメージに近づけやすい。6色セットと100色セットの絵の具があったときに、どちらの方が良い絵を描けるかはわからないとしても、100色あればその方が「この色を使いたい」と思ったときに混ぜる手間が減る。

外国語を話すときに困るのは、基本的な表現の「間」にある曖昧で名状しがたい感覚を表現しようとしたときに、それをそのままピンポイントで言い当ててくれる言葉が出てこない(そもそも知らない)といったことで、これは「こういうドリンクを飲みたいのに無い」とか、「紫色を使いたいのに赤と青しかない」という状況と同じで、だからそういう「間」のものを埋めていく、あるいはその「外側」にあるものを調達してくる、ということが必要なのだと思える。

言い換えると、全部で100個の目盛りがあったらまずはそれを10個ずつ刻んで10目盛りだけ獲得し、それができたら5刻みでさらに10個の目盛りを獲得し、それもできたら3刻みで・・というふうに、だんだんと使える表現の目盛りの数を増やし、どれだけ曖昧な感覚であっても言い当てられるようになればそれが外国語で話すことを助けることになるのではないかと考えている。

気づきメモ

最近の気づきをいくつかメモ。

後回し

物事を後回しにすることの問題。自分でイメージしているよりだいぶ負債感が強いのではないか・・とふと思い、どのぐらいマズイのかちょっと考えてみた。
まず、後回しにしてしまっているとき、頭でイメージしているのは、単なる持ち越しというか保留というか、手元にキープしておく感じで、何も失っていないという情景。何も得てはいないけど、失ってもいないという。
しかし実際には、何かを必ず・確実に失っているはずで、これはたとえばレンタルビデオ(古)の延滞料金とか。あるいは、銀行のATMで時間外に現金を引き出した時の手数料。あるいは借金の利子。適切なタイミングでさっさと対応していれば払う必要がなかった出費みたいなもの。それを、後回しにしている間ずっと払い続けている感じ。
利子とか手数料だと「小さな出費」という感じもするから、もっと致命的に近い喩えを考えるべきかもしれないが。少なくとも「キープ」ではなく、後回しにしている間はずっと何かを失い続けているということを言いたい。

ただし、状況が不安定でリスクを見定められないような場合、たとえば病気の経過観察みたいな、手術をするかどうか微妙だから様子を見るしかない、みたいな状況はたしかにあって、そのように何らかのアクションをしない方が良い可能性がある(それをすることによってより大きなデメリットを被るかもしれない)という場合には、手数料を払ってでもアクションを後回しにした方が適切とは言える。

冷笑する特権

五輪反対やLGBTQ支援やフェミニズムといった運動をする人たちに対して、「そんなに熱くなっちゃって、もっと冷静になりなよ、そんなんじゃ誰も話を聞いてくれないよ」という上からな態度の人が相変わらず少なくなく、一体どういうことかと思うが、結局はそのように余裕を持って語れる特権的な立場にあるということなんだろう、と思った。これはヴィルジニー・デパントがBLM関連でどこかに寄稿した話を誰かがTwitterに流したらえらいRTされた、それと同じような話でもあるんだけど。あれは白人であることを意識せずに済むのが白人の特権である、みたいな話だったか。

少し前に、noteで岸野雄一さんが『民主主義のエクササイズ』という論考を公開していて、今は有料で読むことができるけど、そこで言われていた非常に重要なトピックとして、自分のユニークさをアピールするために他者との差異を表明するという現象があり、その表明は多くの場合その他者を批判することによって成り立っている、その際にはその表明が目的なのではなく、「ユニークな私」をアピールすることが目的になっている的な、実際にそのような表現で書かれているわけではないんだけど、僕はそのように読み取ったその話がまた非常に近い内容でもあると思っている。

岸野さんの同論考はこちら。
note.com

元々は雑誌『ニューQ 03号』に寄稿された記事なので、現物が欲しい人はそちらがオススメ。
https://newq.theocorp.jp/magazine03newq.theocorp.jp

他人を自分の人生の評価者にしてはいけない

自分の人生は成功だったか、失敗だったか、意味はあったか、無かったか、といったことを考えるときに、その判定を他人に委ねてはいけない。あの人が駄目だと言ったから駄目なのだ、なんて決めてはいけない。その人は何もわかってなどいない。他人による自分への評価を、自分に関する評価の参考にはしてもよいかもしれないが、他人による評価を決定事項にしてはいけない。

commmons: schola vol.18『ピアノへの旅』発売!

commmons: schola(コモンズ・スコラ)の最新刊、第18巻の発売が発表されました。7月26日だそうです。

artespublishing.com

引き継ぎがあったのは2018年なので、かれこれ3年ですか。

note103.hatenablog.com

待つ方もかなり待ったと思いますが、作る方も相当粘って作りましたね(笑)。ほんとに凄いです。どれだけ大変だったか、想像してもしきれません。

冒頭のリンクからもわかるとおり、今回からはぼくが尊敬する音楽出版社、アルテスパブリッシングさんがブックレットの制作をしています*1。というより、今回からブックレット(というか書籍)だけという感じですかね。音源の方はサブスクのプレイリストを提供するというコンセプトのようで、CDの販売はないようです。

そのおかげもあってか、定価も2,000円(税別)!これってつまり、1〜17巻のKindle版とほぼ同じですね。純粋に書籍としての価格。しかし書誌情報を見るからに、過去のブックレットよりも内容はかなり増えているようですし(単純計算で6〜7割増?)、カラーページもあるようなので、これまでのシリーズに比べるとだいぶ魅力的な価格設定だと思います。さすが・・。

アルテスパブリッシングはカジュアルなヒップホップ入門書みたいなものからカッチリした音楽通論や演奏法、そして民族音楽伝統芸能から音楽どこに行ったのかと思うような建築の本まで、幅は広いけど通底する思想や姿勢は一貫している音楽出版社で、けっして大きくはない(はず)ですが、信用できると言ったらこれ以上信用できる人たちはいません。

今回からいろんな仕組みや体制や体裁が変わったので、再始動までには大変なことも多々あったと思いますが、一度動き出したら後は差分で進められるところも出てくるでしょうから、今後の展開も楽しみです。・・とか言いつつ、scholaのテーマってそれこそ幅広すぎなので、以前に培った知識や手法が使えないケースも多くて、それで結局毎回時間がかかってしまうんですけどね・・*2

ともあれ、関係各位、おつかれさまでした。まずはこの再開第1作めの実りを心ゆくまで味わいたいと思います。

20210603010713
commmons: schola vol.18 ピアノへの旅 - アルテスパブリッシング

*1:この公表も3年待った!(笑)

*2:過去巻に関する言い訳でした。

最近くり返し聴いている2曲

沢知恵さんによるカバー、「小さな恋のうた」。

open.spotify.com

ピアノ弾き語りによるカバーといったら矢野顕子さんがすぐに浮かぶけど、沢知恵さんのこれもほんとすごい。何回でも聴ける。

もう一個はこれ。

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作詞: ビートたけし、作曲: 玉置浩二。たけしさんの詩集に載っていた『嘲笑』を読んで感動した玉置さんが曲をつけた、的な話をどこかで読んだ。

玉置さんは音源としては歌ってないみたいでこういう動画しかないけど、ライブ盤とかでもいいからじっくり聴けるようにしてほしい・・。めちゃ名曲。

コード進行の良さを知るならこっちの方がいいかも。しかしこの動画、二人並んでるけど結局最後まで玉置さんしか歌ってない(笑)。

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千葉県知事選・市長選ふりかえり

千葉県知事は熊谷氏、千葉市長は神谷氏になった。どちらも投票したのでまずはひと安心。良かった。

印象深かったのは、この二人は一貫して他の候補者へのネガティブキャンペーンを行わず、一方で少なからぬ他の候補者はそれをやっていた、ということだった。とくに熊谷氏に対するそれは酷かった。
これは視点を変えれば、そのようなことをする人たちが「そうでもしなければ勝てないと思っていた」ということで、余裕があるならそもそもそんなことをする必要はない。当選した二人には多少なり余裕があったということなのかもしれない。

選挙が終わればノーサイド、とは言うけれど、それは政策論争を戦わせたことに対して言えるのであって、ネガティブキャンペーンという、相手の人格否定にもつながる攻撃は戦いが終わってからも傷跡として残る。それは攻撃をされた側に残る傷というだけでなく、「この人はこんな加害をした」という攻撃を行った側の記録としても残る。

共産党によるそれは、ある種のお家芸なのだろうか、「熊谷氏はこんな無駄な大型開発ばかりをしている、弱者への補助や支援を削り続けている、こんな人に県政を任せておけない」といったもので、そこで取り上げられたことは確かに事実なのかもしれないが、ではその削った分で何が行われたのか、ということには触れられない。キャンペーンの戦略としては正しいのかもしれないが、アンフェアだと思った。
たとえば、熊谷氏は市の職員の給与を減額したのだという。酷い話である、と。しかしその時に、熊谷氏自身の給与も長年カットし続けていたという事実には触れない。その期間も、カットした金額も、知らないはずはないのに。

自民党によるネガティブキャンペーンもいくつかあるが、これはあまりにみっともないものなのでわざわざ触れない。逆に1点だけ良い部分に触れておくと、市長選に立候補した自民党の小川智之(としゆき)候補はフェアだった。彼の陣営には感心できない人もいたけれど(なぜか熊谷氏に票を入れるなと前説している人がいた。市長候補の前説なのに・・)、小川氏自身の演説はそれこそ他の候補を貶めるようなものではなく、本人にできるかぎりの主張をストレートに貫き通していたような印象があった。小川氏はTwitterでも災害情報等をタイムリーに流していて、その辺りのフットワークは神谷氏を上回っていると感じることもあった。どうか今の自民党にあるような、しょうもないポストの奪い合いみたいなことからは適度に距離を取りながら、まっとうな政治家としての道を歩んでほしい。

選挙が終わって、毎日新聞の以下を見て暗澹たる気分になった。

mainichi.jp

相変わらずのSNSバズを狙った扇情的な見出しにも辟易するが、なぜここで「国民の声」が出てくるのだろう?千葉県民が投票をしたというのに?千葉県民の貴重な1票1票を、くだらない政局分析の道具に使わないでほしい。これが当の有権者たちをどれだけ軽んじた態度であるのか、記者は想像できないのだろうか。自民党に文句があるなら、地方有権者の票など使わず、自社の見解として論拠を立てて批判すべきだ。

熊谷氏は今回のような首長選挙においては政党間対立は無意味であるという前提で、どの党からの公認も受けずに出馬し、県民はその熊谷氏に投票した。それにもかかわらず、なぜ県民が「自民党を避けた」ということになってしまうのだろう?そもそも、今回の自民党候補者は「その人に投票しないことによって自民党への負のメッセージを発することができる」ほど大きな存在感を放っていただろうか?

この毎日新聞の記事については、初めから今後の衆議院選挙を見据えた記事を書きたい、その場合にはこのような筋書きで書きたい、という内容が決まっていて、それに沿った取材をダラダラ載せているだけという印象を持った。今回の選挙が「アンチ自民党」などという矮小化されたテーマに収まるものではないということがわからないなら、もう自社で政治記事を書くのはやめて、どこかに外注した方がましだろう。

地方政治を着実に前に進めるためには、一部の政党とだけ仲良くやっていれば良いわけではなく、実際に熊谷氏は市長時代から自民党を含む市議会の各党各派と連携することで、議会とともに様々な実績を残してきたのであって、それは今後の県政においても同様に重要なことであるのに、ここで何党が何党に負けたとか、昭和から続く懐かしげな政治風ストーリーを重ねてくるのはあまりにも現実離れしているし、同地を少しでも良くしていこうと考えている人間にとってはただひたすら迷惑なだけであり、邪魔でしかない。せっかく県民が進めた時計の針を前世紀に巻き戻すのは本当にやめてほしい。

私が県知事選で熊谷氏に投票した理由は様々にあるけれど、ひとつ挙げるなら彼が地方政治の専門家だから、ということがある。ここで言う「政治」とは、議会で支離滅裂な詭弁を弄して質問から逃げ続けるような「誤魔化し」の技法のことではなく、課題や問題をいかにして解決し、前に進めるかという技術のことだ。それはたとえば、台風や地震や世界規模の感染症といった問題に対して、手持ちの限定的なリソースをどう活用すれば最大限の効果を発揮できるかを検討し、指示を出す能力のこと。その技術や能力を普段から最も高いレベルで研究・改善・実行し続けていたのは誰だったのか、ということ。

正直なところ、自分としても熊谷氏のすべてに賛同しているわけではない。わかりやすいところでは、PCR検査に抑制的だったり、あるいは祝日には国旗を掲揚するとアピールしたりするところには警戒感を覚えないわけにはいかない。しかし、今回の選挙で我々は宗教の指導者を選んでいたのではなく、自分の声を社会に反映する代理人としての政治家を選出していたのだから、100%賛同する必要なんてない。大体の方向が合っていればいい。

それに、熊谷氏はどんな結論を出すにせよ、その背景にある論理や根拠、出典等をセットで発信している。その科学性、反証可能なところは信用できる。「おいおい、その結論は違うだろ」と思ったとしても、その方針の根拠を知ることができれば、具体的にどこが問題なのかを市民が検証し、その点に絞り込んで異議を唱えることができる。

逆に言うと、今の国会議員たちはこれをしない(というかできない)からひたすら国民の信用を失っているのであって、その結果として自民党政治は今や科学からかけ離れたカルト宗教のようになってしまっている。(選択的夫婦別姓に対する同党議員団による反対運動はそれが最もわかりやすいかたちで表出したものだろう)

政治は宗教ではなく、科学であり、今回の県知事選・市長選の投票率が大きく上がったのは、熊谷氏が市長時代に築き上げた「とにかくネットで精緻かつ論理的な情報をスピーディーに発信し続ける」という科学的な(誰もがその発信された情報を自分なりに利活用できる)政治スタイルが信頼を集めた結果なのだと思う。何しろ選挙当日は大変な暴風雨で、折からの新型コロナの感染懸念も加わって、本来なら通常より投票率が下がってもまったくおかしくなかったのだ。これだけ多くの有権者が今回の選挙に参加したのは、「政治」がぶ厚い壁の向こうで行われている退屈な密室会議などではなく、自分が住んでいる地域で行われている、自分が住んでいる社会そのものに関する出来事であるということを人々が実感していたからで、そのような意識の高まりが日々徐々に積み上げられていたことが何よりも頼もしく、今後はこの流れがより確かなものになっていってほしいと思っている。