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commmons: schola vol.18『ピアノへの旅』発売!

commmons: schola(コモンズ・スコラ)の最新刊、第18巻の発売が発表されました。7月26日だそうです。

artespublishing.com

引き継ぎがあったのは2018年なので、かれこれ3年ですか。

note103.hatenablog.com

待つ方もかなり待ったと思いますが、作る方も相当粘って作りましたね(笑)。ほんとに凄いです。どれだけ大変だったか、想像してもしきれません。

冒頭のリンクからもわかるとおり、今回からはぼくが尊敬する音楽出版社、アルテスパブリッシングさんがブックレットの制作をしています*1。というより、今回からブックレット(というか書籍)だけという感じですかね。音源の方はサブスクのプレイリストを提供するというコンセプトのようで、CDの販売はないようです。

そのおかげもあってか、定価も2,000円(税別)!これってつまり、1〜17巻のKindle版とほぼ同じですね。純粋に書籍としての価格。しかし書誌情報を見るからに、過去のブックレットよりも内容はかなり増えているようですし(単純計算で6〜7割増?)、カラーページもあるようなので、これまでのシリーズに比べるとだいぶ魅力的な価格設定だと思います。さすが・・。

アルテスパブリッシングはカジュアルなヒップホップ入門書みたいなものからカッチリした音楽通論や演奏法、そして民族音楽伝統芸能から音楽どこに行ったのかと思うような建築の本まで、幅は広いけど通底する思想や姿勢は一貫している音楽出版社で、けっして大きくはない(はず)ですが、信用できると言ったらこれ以上信用できる人たちはいません。

今回からいろんな仕組みや体制や体裁が変わったので、再始動までには大変なことも多々あったと思いますが、一度動き出したら後は差分で進められるところも出てくるでしょうから、今後の展開も楽しみです。・・とか言いつつ、scholaのテーマってそれこそ幅広すぎなので、以前に培った知識や手法が使えないケースも多くて、それで結局毎回時間がかかってしまうんですけどね・・*2

ともあれ、関係各位、おつかれさまでした。まずはこの再開第1作めの実りを心ゆくまで味わいたいと思います。

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commmons: schola vol.18 ピアノへの旅 - アルテスパブリッシング

*1:この公表も3年待った!(笑)

*2:過去巻に関する言い訳でした。

最近くり返し聴いている2曲

沢知恵さんによるカバー、「小さな恋のうた」。

open.spotify.com

ピアノ弾き語りによるカバーといったら矢野顕子さんがすぐに浮かぶけど、沢知恵さんのこれもほんとすごい。何回でも聴ける。

もう一個はこれ。

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作詞: ビートたけし、作曲: 玉置浩二。たけしさんの詩集に載っていた『嘲笑』を読んで感動した玉置さんが曲をつけた、的な話をどこかで読んだ。

玉置さんは音源としては歌ってないみたいでこういう動画しかないけど、ライブ盤とかでもいいからじっくり聴けるようにしてほしい・・。めちゃ名曲。

コード進行の良さを知るならこっちの方がいいかも。しかしこの動画、二人並んでるけど結局最後まで玉置さんしか歌ってない(笑)。

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千葉県知事選・市長選ふりかえり

千葉県知事は熊谷氏、千葉市長は神谷氏になった。どちらも投票したのでまずはひと安心。良かった。

印象深かったのは、この二人は一貫して他の候補者へのネガティブキャンペーンを行わず、一方で少なからぬ他の候補者はそれをやっていた、ということだった。とくに熊谷氏に対するそれは酷かった。
これは視点を変えれば、そのようなことをする人たちが「そうでもしなければ勝てないと思っていた」ということで、余裕があるならそもそもそんなことをする必要はない。当選した二人には多少なり余裕があったということなのかもしれない。

選挙が終わればノーサイド、とは言うけれど、それは政策論争を戦わせたことに対して言えるのであって、ネガティブキャンペーンという、相手の人格否定にもつながる攻撃は戦いが終わってからも傷跡として残る。それは攻撃をされた側に残る傷というだけでなく、「この人はこんな加害をした」という攻撃を行った側の記録としても残る。

共産党によるそれは、ある種のお家芸なのだろうか、「熊谷氏はこんな無駄な大型開発ばかりをしている、弱者への補助や支援を削り続けている、こんな人に県政を任せておけない」といったもので、そこで取り上げられたことは確かに事実なのかもしれないが、ではその削った分で何が行われたのか、ということには触れられない。キャンペーンの戦略としては正しいのかもしれないが、アンフェアだと思った。
たとえば、熊谷氏は市の職員の給与を減額したのだという。酷い話である、と。しかしその時に、熊谷氏自身の給与も長年カットし続けていたという事実には触れない。その期間も、カットした金額も、知らないはずはないのに。

自民党によるネガティブキャンペーンもいくつかあるが、これはあまりにみっともないものなのでわざわざ触れない。逆に1点だけ良い部分に触れておくと、市長選に立候補した自民党の小川智之(としゆき)候補はフェアだった。彼の陣営には感心できない人もいたけれど(なぜか熊谷氏に票を入れるなと前説している人がいた。市長候補の前説なのに・・)、小川氏自身の演説はそれこそ他の候補を貶めるようなものではなく、本人にできるかぎりの主張をストレートに貫き通していたような印象があった。小川氏はTwitterでも災害情報等をタイムリーに流していて、その辺りのフットワークは神谷氏を上回っていると感じることもあった。どうか今の自民党にあるような、しょうもないポストの奪い合いみたいなことからは適度に距離を取りながら、まっとうな政治家としての道を歩んでほしい。

選挙が終わって、毎日新聞の以下を見て暗澹たる気分になった。

mainichi.jp

相変わらずのSNSバズを狙った扇情的な見出しにも辟易するが、なぜここで「国民の声」が出てくるのだろう?千葉県民が投票をしたというのに?千葉県民の貴重な1票1票を、くだらない政局分析の道具に使わないでほしい。これが当の有権者たちをどれだけ軽んじた態度であるのか、記者は想像できないのだろうか。自民党に文句があるなら、地方有権者の票など使わず、自社の見解として論拠を立てて批判すべきだ。

熊谷氏は今回のような首長選挙においては政党間対立は無意味であるという前提で、どの党からの公認も受けずに出馬し、県民はその熊谷氏に投票した。それにもかかわらず、なぜ県民が「自民党を避けた」ということになってしまうのだろう?そもそも、今回の自民党候補者は「その人に投票しないことによって自民党への負のメッセージを発することができる」ほど大きな存在感を放っていただろうか?

この毎日新聞の記事については、初めから今後の衆議院選挙を見据えた記事を書きたい、その場合にはこのような筋書きで書きたい、という内容が決まっていて、それに沿った取材をダラダラ載せているだけという印象を持った。今回の選挙が「アンチ自民党」などという矮小化されたテーマに収まるものではないということがわからないなら、もう自社で政治記事を書くのはやめて、どこかに外注した方がましだろう。

地方政治を着実に前に進めるためには、一部の政党とだけ仲良くやっていれば良いわけではなく、実際に熊谷氏は市長時代から自民党を含む市議会の各党各派と連携することで、議会とともに様々な実績を残してきたのであって、それは今後の県政においても同様に重要なことであるのに、ここで何党が何党に負けたとか、昭和から続く懐かしげな政治風ストーリーを重ねてくるのはあまりにも現実離れしているし、同地を少しでも良くしていこうと考えている人間にとってはただひたすら迷惑なだけであり、邪魔でしかない。せっかく県民が進めた時計の針を前世紀に巻き戻すのは本当にやめてほしい。

私が県知事選で熊谷氏に投票した理由は様々にあるけれど、ひとつ挙げるなら彼が地方政治の専門家だから、ということがある。ここで言う「政治」とは、議会で支離滅裂な詭弁を弄して質問から逃げ続けるような「誤魔化し」の技法のことではなく、課題や問題をいかにして解決し、前に進めるかという技術のことだ。それはたとえば、台風や地震や世界規模の感染症といった問題に対して、手持ちの限定的なリソースをどう活用すれば最大限の効果を発揮できるかを検討し、指示を出す能力のこと。その技術や能力を普段から最も高いレベルで研究・改善・実行し続けていたのは誰だったのか、ということ。

正直なところ、自分としても熊谷氏のすべてに賛同しているわけではない。わかりやすいところでは、PCR検査に抑制的だったり、あるいは祝日には国旗を掲揚するとアピールしたりするところには警戒感を覚えないわけにはいかない。しかし、今回の選挙で我々は宗教の指導者を選んでいたのではなく、自分の声を社会に反映する代理人としての政治家を選出していたのだから、100%賛同する必要なんてない。大体の方向が合っていればいい。

それに、熊谷氏はどんな結論を出すにせよ、その背景にある論理や根拠、出典等をセットで発信している。その科学性、反証可能なところは信用できる。「おいおい、その結論は違うだろ」と思ったとしても、その方針の根拠を知ることができれば、具体的にどこが問題なのかを市民が検証し、その点に絞り込んで異議を唱えることができる。

逆に言うと、今の国会議員たちはこれをしない(というかできない)からひたすら国民の信用を失っているのであって、その結果として自民党政治は今や科学からかけ離れたカルト宗教のようになってしまっている。(選択的夫婦別姓に対する同党議員団による反対運動はそれが最もわかりやすいかたちで表出したものだろう)

政治は宗教ではなく、科学であり、今回の県知事選・市長選の投票率が大きく上がったのは、熊谷氏が市長時代に築き上げた「とにかくネットで精緻かつ論理的な情報をスピーディーに発信し続ける」という科学的な(誰もがその発信された情報を自分なりに利活用できる)政治スタイルが信頼を集めた結果なのだと思う。何しろ選挙当日は大変な暴風雨で、折からの新型コロナの感染懸念も加わって、本来なら通常より投票率が下がってもまったくおかしくなかったのだ。これだけ多くの有権者が今回の選挙に参加したのは、「政治」がぶ厚い壁の向こうで行われている退屈な密室会議などではなく、自分が住んでいる地域で行われている、自分が住んでいる社会そのものに関する出来事であるということを人々が実感していたからで、そのような意識の高まりが日々徐々に積み上げられていたことが何よりも頼もしく、今後はこの流れがより確かなものになっていってほしいと思っている。

中央値を動かす

社会問題について考える中で、最近思っているのは平均値ではなく中央値を動かさなければいけないということだ。

中央値とは、たとえば年収100万、150万、1,000万の3人がいるとして、その真ん中である150万のこと。
(ちなみに平均値は、この場合は約416万になる)

ja.wikipedia.org

上記の例で中央値を上げるにはどうすればいいか。1,000万の人が2倍や3倍の年収になっても何も変わらない。中央値を変えるには、最高額の人ではなく150万の人の年収を上げなければいけない。

では、社会問題における中央値を動かすとは、どういうことだろうか。

夫婦別姓の問題であれ、人種差別の問題であれ、大体は旧来型の古い考え方と、先進的な新しい考え方みたいなものがある。多くの場合は、単に腕力が強い者、あるいは多数派の言い分が古くから採用されており、社会の動き方としては、そこから徐々にマイノリティや力の弱い人々の権利が回復していくみたいな流れになっているわけだけど、その新旧の軸において誰か特定の一人だけが猛烈に先進的なことを頑張ったところで、社会は変わらない。社会が変わるのは、その大多数が旧来の考え方からより合理的でより多くの人が幸福になれる新しい考え方に変化・移動したときであり、ここではその状況を「中央値が動いた」と形容している。

中央値を変えるには、社会全体、対象となる構成員の全体が変わらないといけない。「全員」である必要はないが、その大まかな「全体」に影響を与える程度には大きな変化が必要になる。社会が変わるというのはそういうことで、そういうイメージを持たないと、つまり平均値ではなく中央値を変えるというイメージを持たないと、求める社会にはならない。誰か一人だけが変化しても意味がない。

一人ひとりの変化が無駄だということではない。社会をまともにしたい、もっと良くしたいと思ったら、まずはどんな他人よりも先に自分自身が率先して変わらなければならいが、ただそれだけでは足りないということ。自分だけ頑張って、ついてこない人を指差して「あいつらがついてこないから悪い」などと言っても意味がない。少なくとも中央値が変わる程度の人々が、その正当性を理解できる状況を作らなければいけない。

選挙に行けとか言ってくるやつら

20代半ばから30歳前後はリバタリアンかぶれというか、「他人の自由を侵害しない限りは何をしても自由でしょ」という前提で生きていたから、選挙などまったく関心もなければ行く気もなく、実際行かなかったので、選挙に行けとか言われても「お前の目的を実現したいだけのくせに俺のためになるみたいな欺瞞を言うな」と思っていた。

その考え方はある意味正しく、今でもとくに反論はできず、むしろ共感するから、自分では多分他人に対して「投票に行こうよ」みたいなことは普通言わない。

あるいは「先人が戦いの末に獲得してくれた権利を行使しないなんてもったいない」とか言われても、食べ物を残す人に対して「世の中には貧しくてご飯も食べられない人がいるのだから」とか「お米を作ってくれた人に悪いから」とか言うぐらい非論理的な話だと思ってしまうので、多分それも言ってない。

ただ当時の考え方として、投票率が低いのは社会が安定している証拠でしょ、みたいなことを思っていて、それは「投票に行かなければ社会が安定する」という主従(原因と結果)が逆転したイメージとつながっていた。それだけは明確に間違っていたと今は思う。「健康な人は薬を飲まない。だから薬を飲まなければ健康になれる」みたいな無茶な論理だった。

実際には、低い投票率が連続すれば政府与党の腐敗と独裁が進むわけで、そこまでは考えていなかったということ。

当時の自分と今会話するとしたら、「選挙に行かないのは自由だが、投票しなければそのぶん社会が良くなると思っているならそれは間違っている」と言うだろう。彼がなんと言うかはわからないが。