103

多数派は奪われる

時々読み返している森博嗣さんの日記本で、以下のような文章に出くわした。

セクハラが話題になるごとに感じますが、森よりも上の世代は、やはり子供のときからの環境がどっぷりセクハラ社会だったために、よほど意識が高くないかぎり、ほとんど罪悪感を持っていない、という人が多いようです。口では「最近はセクハラになるからね」と言って苦笑し、でも心の中では、「何が悪いんだ?」と反発しているわけです。たとえば、小学校のときには、スカートめくりなんてものが普通に行われていた社会でした。「短いスカートを穿く方が悪い」「女性だって喜んでいるはずだ」と本気で信じている世代なのです。それを怒る女性を、変人のように見てしまうわけです。
(略)
男女平等などの流れで、「女性ばかりを優遇しすぎではないのか? それでは平等ではない」と反発する声もあるのですが、これは、これまでの歴史を知らない発言だと言われてもしかたがないでしょう。つまり、それくらい女性を優遇する仕組みを押し出しても、まだまだ平等ではない、という歴史です。真っ直ぐ走るためには、ハンドルを真っ直ぐにすれば良いわけですが、今まで右に進んでいたら、左にハンドルを切らないと真っ直ぐにはなりませんからね。
(略)
テレビなどで男性のタレントが、なにげなく話している内容、ちょっとふざけたときに出る言葉、そして態度などに、ときどきもの凄く不快なものがあって、それらは、たいてい上記の「勘違い世代」に根ざした「無意識」です。そういった世代に育てられて、同様の感覚を持たされた若者もいることでしょう。テレビ局はよくああいったものを電波に乗せるな、と思います。おそらく見ている人の大半が、その世代なのでしょう。結局はジェネレーションが変わるまで待たないといけない、のかもしれません。特に悲観的になっているのではなく、言いたいことは、「昔は風紀が乱れていたな」ということです。
(※太字は原文ママ/2001年12月27日の日記より)

ハンドルの喩えはとてもわかりやすい。明快にして適切。自分の中でも感じていた、でもうまく表現できていなかった現象をあっさり言い当てていて、やはり森さんはすごいなと思わされた。

とくに悲観的になっているわけではない、という部分にも共感する。現状を肯定するわけではないけれど、少しずつ良くなってきていることは確かだと思える。

少し似た話で、以前にTwitterで見た以下の表現もこの辺の状況をうまく言い当てている、と思った。

2ページ目にある、ピラミッド型の図説は上記のハンドルの喩えとつながるところがある。

自分なりの言い方でこういった現象を説明すると、「多数派はつねに奪われる」ということになる。

多数派に所属する人は、多数派ゆえの優遇を受けていながら、自分が優遇を受けているとは認識していない(または認識しづらい)。だから、その優遇が抱えている不当さを解消しようという動きが始まると、「すでに平等であるはずなのに、なぜ自分だけが利益を奪われるのだ?」と反発してしまうのではないか、と想像している。

客観的に見れば、「いや、あなたはこれまでわけもなく優遇されていたのであって、それを平等に戻すのだよ」ということになるのだけど、優遇を受けている側からすれば、自分が優遇されているという感覚は持っていないし、社会はすでに「平等」になっている。

タバコの問題にはそれが象徴的に表れている。

受動喫煙を減らそうとか、路上喫煙はやめましょうとか言っても、昔はどこでも気にせず吸える方が「普通」だったわけで、普通のことができなくなれば、その普通による利を享受していた人にとっては、自分が「普通よりマイナス」の環境に追いやられたと感じても不思議はない。

夫婦別氏制度の議論についても似た状況があると感じている。客観的に考えれば、見ず知らずの夫婦が異なる氏(姓)を名乗ろうともそれで不利益を被る人などいないように思えるけれど、夫婦であれば誰もが同じ姓を名乗ることが普通だった社会で長く過ごし、その一員であった人の中には、その「普通」を構成するメンバーが減ることに不安を感じる人もいるかもしれない。よその夫婦が異なる氏(姓)を名乗ることに反対するのは、その「多数派であるところの自分を支えていた状況」が崩れることへの不安が作用しているのではないかと思っている。

しかしながら、いずれにしても、多数派とは物事を任意の範囲で切り取ったときに生まれる暫定的な割合のことであって、もともと不変のものではないだろう。人々の嗜好(指向)や傾向、属性といったものは細かく見ていけば必ずどこかズレているはずで*1、そのズレを「大体同じ」と見るか「全然違う」と見るかの問題であるとも思える。

ちょっとのズレを「いいじゃん、同じで」とひっくるめれば多数派が形成され、その中でもとくにその特性にフィットする人は優遇を受けられるが、「違うんだけどなあ・・」と感じる人は不利益を被ることになる。

逆に、そのちょっとのズレに注目して、違いを価値としてアピールしたり、そこにビジネスチャンスを見出したりする人が増えると、多数派は多数派を保持することが難しくなるかもしれない。そして基本的には、人の指向や傾向といったものは細分化されていくものだと思える。件のタバコにしても、ぼくが子供の頃にはそれほど選択肢はなかった。ハイライトならハイライトだけ。マルボロならマルボロだけ。それが次第に、同じブランドでもマイルド系、ライト系などちょっと軽めのものが出てきて、やがてウルトラマイルド、スーパーライト、3ミリ、1ミリ・・どこまで刻んでいくのかと思っていた。

「大体同じ」から「細分化」への動きはおそらく止められない。人間が自らの快適さのためにそれを求めている。そして細分化されるごとに新たな多数派が生まれ、その多数派はまた奪われる。

*1:同じ人間ですら、時間が経てばかつて好きだったものを嫌いになったり、その逆になったりする。

2018年8月の音楽

そろそろ9月になりますが・・最近よく聴くいてる音楽(おもに@Spotify)です。

Fog Lake "Almost Fantasy"

めっちゃイイ。こういうのだけ一生聴いていたい。

Paul Cherry "Like Yesterday"

www.youtube.com

最高。ここ1〜2週間で聴いた音楽の中では一番スキですね。このヴィデオもねえ・・大学生が一時の熱狂に浮かされて一気に作ったような雑さと計算とエネルギーがとてもいいです。

Her's "What Once Was"

この曲、気がつくと頭でヘビロテ。他の曲を聴くとあまりピンとこないのもあるんですが・・この曲はほんとになんかハマる。名曲だと思います。

Beach Fossils "Sleep Apnea"

これも気がつくと頭で流れてる系ですね。記憶から消えてしまわないうちにここに記しておきます。

最初にも書きましたが、大体の好きな曲は最近はSpotifyで教えてもらいます。Apple Musicとかでもいいとは思いますが、いずれにしてもこうした優れたサブスクリプション音楽サービス、新たな音楽体験を提供してくれて大変ありがたいです。

20世紀の名曲・名盤と言われた作品も、これのおかげでフラットに聴き比べることができて、かつてのような「大金払って買ったんだから良いに決まってる(というか良くなきゃ困る)」みたいなバイアスから逃れた場所で、純粋に音楽として付き合いやすくなったと思います。

まあ実際には、そうした名盤バイアスみたいなものから完全に逃れることなどできないと思いますし(他の音楽リスナーとまったく付き合わずに音楽を聴くことなんてできないので)、その必要もないとは思いますが。

それで思い出しましたが、他人が自分の記憶、かつての音楽体験と重ね合わせながら任意の音楽を良いとか悪いとか評する行為って、ビールを「うまい」とか「夏に合う」みたいに言う行為に近いな、と最近思っています。ビールってべつに、そんなに味として感動するほどおいしいものではないと思うんだけど、それでも楽しい過去の体験とセットになった飲み物だから今なおメジャーであり続けている、という気がするんですよね。

音楽もそれに似て、自分が若かったとき、初めて見聞きするものに囲まれてドキドキしながら失敗したり成功したりした、そのときにBGMとして流れていた音楽がかけがえのないものになっていて、それを想起させるものを高く評価したり、良きものとして他人に勧めたりするってことがあるんじゃないかな・・と。

言い換えると、こうした文化には「誰かが美化して語った記憶を他人が真に受けながら追体験する」みたいな側面がある気がします。それを悪いことだとも思いません。

では、最後に一つ、8月に聴いたグレイト音楽。これはぶっ飛びましたね〜・・岸野雄一さんが着実に地ならしをなさった末のひとつの未来が現実化したのだなと思っています。

www.youtube.com

わたしのメール作法

メールの作法についてぼんやり考えていた。作法と言っても、言葉遣いとか定型文とかをどうする、という話ではない。どちらかというと、そういうマナー講座的なことは苦手というか、よく知らない。

考えてみれば、最初にscholaで編集作業を始めた頃も、文章の直し方などはそういう教本や講座で学んだわけではなくて、一般に出版されている本を数冊並べて、それらに共通するルールを抽出して、それに準拠するようにしていた。具体的なところだと、三点リーダ(…)などは通常の出版物では「……」で統一されている。だから、自分も「みんながそうしてるから」というだけの理由でそれにならった。今もそうしているし、妥当な検討方法であり判断だったと思っている。

(本格的な校正の工程に際しては、赤字の入れ方を日本エディタースクールが発行している薄い本で練習しながら学んだ。それは知人のデザイナーが厚意でぼくにくれたものだった。ありがたかった)

メールをパソコンで書くようになったのは2003年だったと思うが、2005年から共編著『大谷能生フランス革命』の制作関連で少しずつやり取りの数が増えてきて、しかしやはり一気に増えたのは2008年に音楽全集『commmons: schola』の制作に関わってからだろう。

メールの書き方を誰かに教わったことはなかったが、そうやって仕事で使っている人の文章を見ながら「みんながやっている」共通のルールを知るようになり、そのうち有効なものは取り入れ、非効率だと思うものはスルーした。

編集の仕事というのは原稿を読んだり手を入れたりすることがメインであるように思えるけれど、自分の作業を振り返るとそのようなことをしているのは全体のほんの数割で、残りの時間はメールを書いたり、そのメールを書くために必要なデータを作ったりしている。こうしたコミュニケーションの方が作業のメインだと感じている。

scholaでは多忙な方々にこちらから様々な内容に関する連絡をして、その回答を得ることが求められる。冒頭に記した、ぼくの考えるメール作法というのはここから関係してくる。

多忙な人に何かを質問するようなとき、ぼくがよくやるのは、先にこちらで選択肢を用意しておいて、その中から回答を選んでもらう方式だ。具体的には、ABCの三択を用意し、もしその中のどれでもなければ選択肢Dとしてその回答を教えてください、とする。

そうすると、大抵はABCのどれか、あるいはそれに新たな要素を付け加えた「B+」みたいな回答が戻ってくる。Dになるとしても、その時点で少なくとも「ABCのどれでもないD」ということになるので、先方としてもDを具体的に書きやすくなる。

また、そのときのABCに「捨て選択肢」はない。よくプレゼンのメソッドとして、あえてダメなやつを混ぜておく(それで提案者が選んでほしいものを選ばせる)、みたいなことが言われるが、そんなことをして「ダメなやつ」が選ばれて不幸になるのは最後にお金を払ってくれる読者である。そのような可能性を進んで作ってはいけない。

個人的に、「Bになればいいな」とか思うことはあるけれど、それはそれ。まずはどれを選ばれても問題のないような選択肢を作る。

もしも本当に「Bになるべきだ」と思うなら、選択肢を提示する際にそのこともきちんと伝えればいい。個人的な考えだったとしても、その旨を断って伝えれば少なくとも有害な情報にはならない。

専門家であるところの相手から意見をもらう前に、自分の意見を伝えることにはリスクが伴う。こちらは専門家ではないから、的外れなことを言う可能性があるし、場合によっては信頼を失う。自分の身を第一に考えるなら、必要最低限のこと以外は何も言わないのが安全だ。しかしそれをわかった上で、それでも伝えておいた方が良いと思ったことは言う。いずれにしても、「こうした方が作品が良くなり、読者のためになる」と思った方を取る。

メールで与える情報が多すぎると、先方がそれを解読するコストが高まるので良くないが、かといって少なすぎても必要な情報が共有できない可能性が高まるので良くない。適度に充実した情報を渡すことが理想だ。

もしも自分だったら、と考える。もしも自分がこの選択肢をもらったとして、そこにどんなコメントが付属していたら判断をしやすくなるだろう? と考える。そしてその架空の世界に向けて、有用と思える情報を1〜2文付け加える。

そのようなときには、自分の意見は重要ではない、必ずしも考慮してもらう必要はない、ということを自分で理解しながら書く必要がある。それが相手に伝わるようにも意識する。

ぼくがこうしてほしいんです、という風にではなく、「なんか、さっき道ですれ違った人がそんなこと言ってましてねえ〜」ぐらいの、街の声をレポートするような感覚で、あくまで参考情報だけれど、という感じで伝える。判断の行方を限定するものではないが、判断に影響する可能性があるものとして伝える。それはただそこにあるだけの意見であり、向こうから何をしてくるわけでもない精霊のような存在とも言える。従う必要はないが、参考にしたければできるもの。

選択肢を用意する、というのは考えてみるとユーザーインターフェースの問題なのだと思える。たとえば、Webサービスなどのアンケートで、自由に書けるテキストボックスが用意されている場合と、ラジオボタンで多肢択一式になっている場合とでは、回答者の負担は大きく変わる。どちらが良いということではなく、求める回答によって適切な形式が変わる。

ぼくの場合は、内容が複雑に込み入った話題であるときほど、こちらで選択肢を用意しておくようにする。その上で、こちらの想定できない回答がある場合を考慮して「もしこの中のどれでもなければその旨お知らせください」としている。

いずれにしても、心がけているのは、「YES/NO/その他」のいずれかで明確に答えられるようにする、ということだ。「その他」しかないような質問をしてはいけない。「YES」と「NO」が用意されていれば、仮に「その他」が選ばれてもそれは「YESでもNOでもない限定的な「その他」」ということになる。

「その他」を具体的に戻してもらえず、「YESでもNOでもないんだけど、かといってどう言えばいいかもわからないんだ」と言われたなら、「YESでもNOでもないなら、どうだということなのだろう?」と新たに想像して、そこから考えられる選択肢を考え出してまた質問すればいい。最初の質問時に比べれば、ずっと対象は限定されている。

選択肢を考えるのは、時間がかかる。選択肢の内容について「意味わからん」とか「テーマをわかってない」などと突っ込まれたらけっこう苦しい(幸いそういう経験はないが)。にもかかわらず、そんな面倒なことをするのは、メールの往復を減らすためだ。相手は多忙な人々だから、込み入った、やり取りに時間がかかりそうなメールだと思われたら後回しにされてしまうかもしれない。しかし「YES/NO/その他」を答えるだけなら、すぐに答えてもらえる確率が上がる。

メールの文章は短いほどいいか? と言えば、ケースバイケースだと思っている。それこそ、「YES/NO」を聞かれただけなら1行で返せるが、それは回答する側だからだ。

質問する側からの情報が少なすぎれば、回答する側は有効な判断をできなくなる。少なくとも、回答するために必要なだけの情報を知らせなければ非効率になる。

だから、ぼくは1回あたりの文章量にはあまりこだわらない。短いほど良いとは思っていない。それよりも、「回答するために充分な情報が揃っているかどうか」を考える。

先方からすれば、1つの案件に関してやり取りをする相手はぼくだけかもしれないが(1対1の関係)、scholaのように1冊の中で何人もの著者や関係者がいる場合には、一人で複数人とこうしたやり取りをすることになるので(1対多の関係)、「さっきのメール、どういう意味ですか?」みたいにメール自体の意味について質問し合うような事態が生じたら作業量が何倍にも増えてしまう。

scholaに参加したての頃は、いわゆる即レスというのか、いつ連絡が来てもすぐに返すようにしていた。真夜中でも、早朝でも、夕方でも、通知が鳴ったらすぐに返した。そうすべきだと思ったのでもなければ、そうしたかったわけでもなく、そういうものなのだと思っていた。それに、5分で返せるものを半日も1日も放置していたら、そのぶん進んだはずのプロジェクトが停滞してしまう。これに耐えられない。5分で返せばすぐに次のフェーズに移れる。そのスピードを重視していた。「いつ寝てるんですか?」とよく聞かれたが、そのことを少し誇らしくも感じていた。

しかし、そんなことを昼夜問わず、盆暮れ正月もなくやっていたら体がもたない。即レスではあっても、内容をおろそかにはできず、何周も読み直してから返信していたのだ。

スピードと内容のどちらもは取れない。と思って、両者を天秤にかけて、即レスにはこだわらないことにした。今は大体、メールをもらったら早くて同日中、それができなくても翌日の同じ時刻ぐらいまでに返せば充分、という感覚で対応している。

ただし、即レスを悪しきものとしているわけではないので、すぐに返せる場合は返しているし、相手が困っているようなときは優先している。逆に、プライベートの相手なら仕事よりも優先度が低い。これはすでに信頼関係があるから。

返事に時間がかかりそうだ、と思った場合には、初めに連絡を受け取ったことだけを返信しておく。これは調べ物を伴う場合などに多い。「要件は了解。調べる必要があるので、*曜日の*時頃までにあらためて連絡します」という風に、次の返信タイミングを予告しておく。この予告はなかなか効果的で、ぼくのような人にはお勧めできる。簡易的・心理的なリマインダー設定になっていて、不思議なことだが、大体予告どおりに終わるのだ。

この予告メソッド(と今名付けた)は、Slackなどのチーム内チャットでもよくやる。「15時ぐらいまでに確認してレスします」とか、よく言う。すると、14時53分ぐらいに完了している。半ば偶然だが、半ば当然なのかもしれない。

大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命

commmons: schola vol.17 Ryuichi Sakamoto Selections: Romantic Music(2枚組)

commmons: schola vol.17 Ryuichi Sakamoto Selections: Romantic Music(2枚組)

eメールの達人になる

eメールの達人になる

直近2ヶ月間の様子 〜 事前チェックの話

  • 6月に入った頃から一気にTwitterでの投稿が増えた。いわゆる解禁というか、それまでの一番の懸案というか、プレッシャーの源だった、山口への出張取材が5月末でひとまず終わり、その原稿化作業もある程度目処が立ってきたから、というのが直接的な理由だろう。
  • 具体的には、6/3の段階で原稿がほぼ「人に見せられる」ぐらいまでは行ったみたい。編集部に送ったのが翌日。で、Twitterは6/2までしばらくゼロ行進だったのが6/3に1ツイート、翌日以降は毎日、徐々に増えていったのでわかりやすい。ホッとしたのだろう。
  • しかしここでホッとしすぎて、本来なら1週間後(6/10)に迫った簿記2級の検定のために一気に切り替えてフルスピードで勉強しなければいけなかったところ、どうもあまり身が入らず、いや時間的にはそこそこやったのだけど(1日6〜7時間)、もうひと押し、というところで気が散ってしまうというか。自分でもそれはわかっていたのだけど、もう「休む」方が習慣化してしまっていた。
  • ということで(というべきだろう)、簿記の方は6点足らず不合格。しょうもない、見直しさえやっていれば拾えたミスがそれだけでも8点分あったので、ああ、それさえ取れていればと何度も思ったけれど、基本的にはベースの力が低かったせいでそこまでギリギリの戦いをしていたわけで、言い訳のしようもない。勉強不足でした。
  • その後は山口取材記事の仕上げ作業。すでに編集部には渡し済みで、あとはインタビュイー(被取材者)であるところのYCAM(ワイカム)渡邉さんと、編集部によるチェックをもらって修正、というのがメイン。Twitterでも時々話題にしたけど、今回の編集部とのやり取りではGitHubを軸にデータや意見のやり取りをできたので大変助かった。渡邉さんも記事をご覧頂ければわかるとおりギークな人なので(→記事)、リポジトリ上でサクサクとプルリクしてくれたりして夢のよう、というか未来のよう。これが2018年の編集でしょう。
  • そういえばこのところはTwitterで「事前チェック有りや無しや」みたいな話題がホットのよう。
  • 曰く、「記者が被取材者に記事の公開前チェックをさせるのは編集権を渡すに等しい。ジャーナリストとしての責任を果たすためにも、そういう要求は毅然として断るべき」とかなんとか。これに対して、「いや記者さんは専門家じゃないからその人に取材をしたわけで、事実関係の間違いとかあるかもしれないし、そもそも言ってないことを言ったことにされて困るのは被取材者なんだから、チェックさせなさいよ」とかなんとか。
  • 個人的には、以前に以下の記事でも書いたけど、「ようは前提がズレてるだけでしょ」でファイナルアンサーではある。

note103.hatenablog.com

  • チェックさせたくない、と言う記者さんの頭にあるのは、自分(自社)の制作物であるその記事を、外部の人間の指示で変えてしまったら記事の存在意義が変わってしまう、自分の責任のもとに公開できなくなってしまう、みたいなことだろう。それはそれでわかる。ある意味ではその通り。記者さんは被取材者が見ていないところも含めて原稿を書いているだろうし、自分はインタビュイーのスポークスマンとかメッセンジャーではないのだ、ましてやお金を受け取って広告を作ってるわけではないのだと、取材で聞いた話というのは、あくまで記事の全体を構成する要素のひとつに過ぎないのであって、修正を指示するなら自分と同じ全体を知っている(把握している)人からのものでなければ受け入れようがない。とか、そんな論理は確かに成立すると思う。
  • 一方で、「直させなさいよ」という意見もまた妥当。結局のところ、記事を読む人は記者やメディアの意見として読む以上に、インタビューであればインタビューされた話者の意見だと思ってそれを読むのが自然であるから、にもかかわらずその喋っている人が「そんなことは言ってない」と思うなら、それは読者に誤った情報が伝わっていることになる。
  • だから、前提がズレていると言える。記者の方は自分(自社)の責任のもとその制作物を公開しているつもりだけど、インタビュイーや読者はそうしたメディアを飛び越して、その制作物がインタビュイーによるものだと思ってる。その別々の前提のもとで、やれ「チェックさせない」とか「チェックさせろ」とかやってるわけで、それがズレたままでは不毛なばかりか罵り合いにより気分的にも害がある。
  • 個人的には、単純な話、取材依頼の段階で事前チェックの有無についてすり合わせておけばいいだけでは・・とは思う。ただし、インタビュイー(被取材者)の方は普段そんな経験はしない、いわば素人であることも多いだろうから、その素人にそういった前提的な手続きを求めるのは無理がある。本来であれば、プロであるところの記者(メディア)側が言っておくべきことだろう。
  • しかしまあ、現実的には、わざわざ「ウチの方針として、あなたに事前のチェックはさせませんから」などと依頼時に言えるメディアがあるとはあまり思えないので、被取材者の方で自衛として聞いていくしかないのかな、とも思うけど。
  • 一方、というかちなみに、というか上記の山口取材の記事(@GeekOut)では、そこにも書いたとおり被取材者の渡邉さんには公開前にめちゃくちゃチェックしてもらったし、それを受けての修正もめちゃくちゃ入れた。(というかGitHubのプルリクエストなので一旦マージしてから微調整した)
  • 渡邉さんからの修正はそこそこ多くて、といってもおそらくご本人はこちらの原文を最大限尊重してくれたと思うけど、それでも渡邉さんは普段の仕事が文章をすごく書くもので、またライターとして寄稿したり、美術家としても文章を書いたりする人で、なおかつ何しろ今回の記事では全編渡邉さんが喋っているわけだから、多分直そうと思えばいくらでも直せたと思うのだけど、だからそのうちのほんの一部だとしても、通常の被取材者チェックなどに比べたらけっこう多い方だったのではないか。
  • で、ぼくはそれに対してどうしたかと言うと、上にも書いたがそのほとんどをすべて一旦受け入れて、その上で表現として調整したいと思ったところはこちらに任せてもらった。
  • では、それだけ多くの修正を反映してぼくの編集権(というか)が奪われたり薄まったりしたのかと言ったら、まったくそんなことはない。なぜなら、その程度の修正で壊れるようなものを作っていないから。(ドヤァ)
  • 実際には、上記のとおり渡邉さんも文章を書ける(=文章の背景を含めた全体を読める)人なので、そもそも初めからおかしな要求をしてこないということもあるのだけど。だからこそというか、渡邉さん的にも全体に影響しそうな修正案については、自分で直してしまう前に一旦ぼくに相談してくれたりしたのだけど、それに対してもぼくの方では「あ〜、なるほど。じゃあ一旦その方向で直してみましょうか」みたいに反映してから必要に応じて調整しながら仕上げていった。
  • 話を戻すと、最初に他人に見せられる程度の(チェック可能な)原稿を作った段階で、核心になる部分はもうできている。大抵の場合、その時点から後に他人が修正できる箇所というのは、たとえてみれば人間が着る服とかアクセサリーとかの部分であって、服の中身の人間が変わるほどの根本的な修正というのはほとんど出ない(できない)。
  • 仮に、そういった本質的な(服の中身の人間の性格が変わるような)修正を依頼された場合には、その意図をきちんとヒアリングした上で、こちらの方針とズレるようなら話し合って適切な内容に落とし込めばいい。もしその際、どうしても方針に相容れない部分があった場合には、すべて白紙に戻ることも想定しながらガチで意見を戦わせる必要もあるかもしれないが、大抵の場合はそこまでいかずに合意できるだろうし、むしろ終盤になってからそれだけ意見の開きがあったらそれ以前のどこかの段階で飛ばすべきではない工程を飛ばしているのかもしれない。つまり、もはや事前チェックがどうという話ではない。
  • 人は見た目が9割とか、神は細部に宿るみたいな話は文章でも言えて、だから上で言う「服やアクセサリー」の部分も文章の本質に関わる大事な要素ではあるのだけど、実際にはそれも全体を把握していればどうにでもなるもので、たとえば被取材者が「絶対にこの指輪とネックレスは付けてほしい。その靴は気に入らないからこっちに変えてほしい」みたいな要求をしてきたら(ぜんぶ上記の流れの喩えですが)、それを全部反映させた上で、それらの付け方や履かせ方を調整することで全体の方針を保てばいいし、まずはそれを試みた上で、「いやどうしても無理だな」となったらあらためて話し合えばいい。
  • 「被取材者(インタビュイー)→記者」の関係は、「使用者(強者)→労働者(弱者)」の関係ではなく、どちらかと言えばその逆だから、「インタビュイーの言いなりに原稿を直したりしないよ」と言いたくなる記者の気持ちは理解できる。しかし、実際にはメディア側(記者)の方が立場が強いという状況があること、つまり、最終的にどういう内容で公開するかを決定するのはメディア側である、という不動のアンバランスさがあることを考えれば、メディア側が被取材者の意向に最大限寄り添うのは当然のことだと思う。
  • 論理的にはそうとしかならず、誰が考えたって結局はその結論に行き着くはずだと思うけど、現実的にはそんなチェック工程を挟んでくれないメディアも少なくないかもしれない。しかしおそらく、その場合にはその理由は単純に「スケジュールの問題」なのだと思える。どちらが偉いとか、責任がどうとか、編集権とか、公平性とかの問題ではなく。
  • 記事の作成過程で一番大変なのは「とりあえず人が読めるぐらいまで作る」ということで、より良いものにするためには、そこからいろんな人に読んでもらう工程が必要になるわけだけど、その前の段階、つまり「とりあえず人に読ませられるところまでキタ!」という段階をゴールに設定してしまうと、そのスケジュール上、メディアの外部にいる人がチェックすることは難しくなる。おそらく、被取材者に公開前のチェックをさせないメディアはそういうスケジュールを組んでいる。
  • それに、上にも書いたが記事の作者は取材によって得た情報をあくまで素材のひとつとして見ているのであって、しかし原稿はそれ以外の様々な要素と組み合わさって出来ている。ある意味、それは絶妙なバランスで積み上げられたジェンガの塔みたいなもので、できることならそれ以上誰にも触ってほしくない、と書き手が思うのは自然なことだ。
  • その場合、そもそも原稿に対して外部から(ここではインタビュイーから)意見を聞く工程があるというだけでも書き手にとって大きなストレスやプレッシャーになることは想像に難くない。さらに、そうしたチェックが公開目前の時期に重なってしまった場合のストレスと言ったら大変なものだろう。逆に言えば、そのような機会自体取り払ってしまえば、書き手はそうしたストレスからひとまずは解放される。
  • スケジュールにチェック工程を含めるというのは、だからそれだけ負担のかかることで、第一には充分な(長めの)スケジュールを組む必要があるし、第二には上記のような公開目前まで続くストレスに耐える覚悟が必要になる。そしてそのような状況に対して、「いや、そんな余裕ないんですよ。」というのが結局のところ「事前チェックはさせない」という方針の一番の理由になっているのではないかと思う。
  • 話を数段階戻すと、「事前チェックさせない」と言う側の頭には、「こっちは広告作ってるんじゃないんだから、インタビュイーの言いなりに原稿を直したりしないよ」という思いがあるだろう。「言いたいことがあったら、自分のメディアでやりなさいよ」と。しかしそうであるなら、そういう力関係、双方の立場のあり方について、取材を依頼する段階で明示しておく必要があると思う。多くの場合、取材というのはメディアの側から申し込むものであって、インタビュイーはそれに慣れていないのだから、話を聞くだけ聞いて、主語をインタビュイーに設定して、誤った情報が流れてしまっては誰も得をしない。
  • ただ実際には、くり返しになるが、現時点でそれをしていないメディアが今後自主的にそういう事前説明をするようになるかといったら、あまりそういう想像はできない。だから現実的には、取材を受ける側が「公開前にチェックできますか?」と聞くことが、そういった地味な悲劇を回避するための一番確実な方法なのだとは思う。
  • 作家の森博嗣さんは、もう10年以上も前に刊行された日記シリーズでちょくちょくそのことを書いている。曰く、新聞社から取材の依頼があったが、断った。なぜなら、事前にチェックさせないから。みたいな*1。これが何度も出てくる。例外的にその条件を飲んで取材を果たしたのはたしか産経新聞の特集記事みたいなやつで、その時の取材はとてもちゃんとしていた、みたいに書いていた。(例外的だったのでよく覚えている)
  • 話をまた戻すと、上記のYCAMの記事のように、メディアによってはちゃんと事前にインタビュイーのチェックを受けているし、ほとんどまったくリジェクトなしで反映することもある。まあ、ぼくの場合はとりわけ反映した方なのではないかと思わなくもないけど・・ただ少なくとも、その記事ではそれをやった。だから、そういうメディアもあるよ、ということ。
  • 以前に少し関わった、「schola TV」も当然のことながら、放送前には坂本さんによる事前チェックの期間がきちんと取られていた。
  • つまり、TVにしたってそういうのもあるよ、ということ。番組による。
  • 言うまでもないけれど(と言いつつ言う必要がありそうだと思うから書くのだけど)、なんでもかんでも100%事前チェックをさせるべきという話ではない。状況による。しかしいずれにしても、読者がその記事を読んで(あるいは番組を見て)、被取材者が言っているかのように受け取れる内容が、実際に被取材者の言いたかった内容とズレている可能性の生じる状況だったら、被取材者および読者のために事前チェックの工程を設けるのは当然のことで、それができないのだとしたら、その理由は思想とか方針とかによるものではなく、スケジュールや書き手の体力といったリソースの問題だと考えるべきだろう、ということ。
  • 直近の話をもう少し続けるつもりだったけど、長くなったのでここまで。

*1:実際にはその他に「顔出しNG」という原則もあって、それに抵触して断ってるのも多い。

YCAM(山口情報芸術センター)の渡邉朋也さんにインタビューをしました

めずらしくschola以外の仕事をしました。以下のインタビュー記事の執筆(取材・構成)です。

https://geek-out.jp/column/entry/2018/06/21/110000geek-out.jp

ふり返り

普段は編集の仕事をしているので、様々なテーマを専門とする執筆家の方(ライターさん)に原稿を依頼する側ですが、今回は逆に原稿を依頼されて、いろいろと新鮮な経験をしました。

実際の作業内容としては、何時間か対象者の話を聞いた後に、それを読者に向けた1本の読み物にする、という意味でほとんどこれまでやってきたこと(とくにはscholaの座談会など)と同じようなものでもありましたが、新鮮だったのは編集さんとのやり取りなどですね。

普段の編集の仕事では、ベースとなる文章はライターさんに書いてもらって、ぼくの方ではそれを商品に仕上げていくような役割を担っていますが、自分がライターになる場合はその「元になる文章」を自分で書かなければいけないわけで(当たり前ですが)、これはなかなかのプレッシャーでした。

とはいえ、上にも書きましたが、インタビューの場合には「対象者から聞く話」というのがその「元になる文章」の役割を担う面もあります。

編集者の仕事が、執筆家による原稿を「加工」する仕事なのだとすれば、インタビュー記事を作るのもまた、対象者による話を原稿に「加工」する作業なのだと言うことはできるかなと。

そう考えてみると、いわゆる書き原稿(イチから文章を書いていく仕事)にしても、定められたテーマを「加工」する仕事なのだと言えなくもないかもしれないですが。

さて、そうは言っても、インタビューということはこちらからいろいろ聞いていく必要があるわけで、この辺の準備というか、どういう質問をしていくのか? といった辺りの作業はあまり経験がないので少し悩みました。

ちなみに、ぼくが以前にインタビューをした仕事といえば、commmonsからリリースされたフレットワークという古楽アンサンブルのCDをディレクションしたときに、ブックレットに載せるための坂本龍一さんのインタビューをしたことがあって、もしかするとそれぐらいだったかもしれません。

そしてその仕事もほとんど10年ぐらい前のことで、通常はあまりやらないことなので、質問を考えたり、原稿全体のテーマや流れを考えたりするというのは、どれもイチから手探りで立ち上げていく感じで、なんというか、粘土をこねながらあーでもない、こーでもないと物作りをするような感覚でもありました。

とはいえ、さらにしかし、そういった粘土工芸のような手探り的な物の作り方というのも、考えてみれば毎回テーマがガラリと変わるscholaの編集でいつもやっていることか・・と今書きながら思いましたが。

渡邉さんについて

・・などと、あまり詳しく制作過程について書いているといつまでも終わらないので、今回取材した渡邉さん&YCAMについて。

今回インタビューした渡邉朋也さんは、YCAM(ワイカム)という、山口県山口市にあるアートセンター(美術館みたいなもの)のスタッフであり、またコンピューターなどを使った現代美術の美術家です。

実際には、そんな説明ではちょっと伝わらないぐらい多才な方ですが、今回のためにぼくが作って渡邉さんに適宜直してもらったプロフィール文があるので、以下に転載しておきます。

渡邉朋也(わたなべ・ともや)
山口情報芸術センターYCAMアーキビスト、Webディレクター。多摩美術大学美術学部情報デザイン学科でメディア・アートの制作について学ぶ。卒業後は伊東豊雄建築設計事務所による同大学図書館のリニューアルに携わり、館内のオープンスペースなどの運営に従事。2010年、YCAMのスタッフに着任し、事業の記録物の制作、公式サイトの運営、広報のプロジェクト管理、委嘱作品の保存・修復などYCAMの事業全般に携わる。
個人としては在学中から美術活動を開始し、ベルリンで行われた『transmediale 2014』、仲條正義服部一成中村勇吾らと参加した『光るグラフィック展』(2014)、三菱地所アルティアム企画『みえないものとの対話』(2015)、アンスティチュ・フランセ企画『プレディクティブ・アートbot』(2017)など多数の企画展、個展で作品を発表。その他、書籍やWebメディアへの執筆、ITリテラシーの向上に関する講演など、多方面で活躍。タレントとして「オロナインH軟膏」のWeb CMシリーズ『さわる知リ100』(2015-2016)にも出演した。

前半がYCAM関連、後半がアート系の活動ですね。

最後に出てくるオロナインのCMシリーズというのはたとえば以下で、これはめっちゃ面白いのでぜひどうぞ。シリーズ全体オススメです。
http://shiri100.jp/page/079shiri100.jp

それから、文章もよく書かれていて、この連載も面白かったです。
http://fukuchinochi.com/pre/create/diy/201703_page1389.htmlfukuchinochi.com

公式サイトも紹介しておきます。
http://watanabetomoya.com/

渡邉さんは多摩美の情報デザイン学科卒とのことですが、ぼくもムサビ(の油絵学科)だったので、ベースにある思想というか、姿勢のようなものがちょっと近いかなという感じもあり、お話は非常に楽しく進めることができました。

写真を担当してくださったのは山口で活動されている谷康弘さんで、こちらも非常にノリが近くて仕事をしやすかったです。

当日は昼過ぎから館外の撮影をスタートして、その後に館内を渡邉さんに案内してもらいながら(贅沢!)いろいろお話を聞いて、最後に静かな部屋で大きなモニターを見ながらまたあれやこれやと喋っているうちに夜になってしまい、あとで録音データを見たら6時間48分回っていました。7時間!

時々、谷さんも交えて雑談タイムを挟んだり、休憩を入れたりしたせいもあるかもしれませんが、とはいえscholaの座談会でさえ長くて4時間半ぐらいだったと思うので、1回の仕事のための素材としては最長かもしれません。

これをどうやって原稿にまとめていったのか、といったことについては、また別途まとめたいと思っています。

YCAMについて

YCAMについての説明も、先の記事から引用してしまいましょう。

その頭文字を取って「YCAM(ワイカム/Yamaguchi Center for Arts and Media)」と呼ばれるこのアートセンターでは、2003年の開館以来、コンピュータやインターネットなどのメディア・テクノロジーを中心に、アート作品の制作・展示や演劇、舞踏、音楽ライブ、古今東西の話題作を厳選した映画上映、そして地域市民と共に作るワークショップなど、さまざまな文化事業が展開されています。
これまでにYCAMで制作を行ったアーティストは、坂本龍一、カールステン・ニコライ、池田亮司、三上晴子、真鍋大度など。また狂言師野村萬斎、演劇カンパニー「チェルフィッチュ」の岡田利規、コンテンポラリー・ダンサーの安藤洋子らも同地で独自の公演を行い、音楽分野ではU-zhaan鎮座DOPENESS環ROYによる実験的なライブや、人工知能のDJと人間のDJが曲をかけ合う「AIDJ vs HumanDJ」など、野心的なプロジェクトが次々と実現しています。

ということで、逆にワケわからなくなりそうですが、基本的には「芸術系のことをいろいろやってる」という感じでしょうか。

実際には、最近だとバイオテクノロジーに関わる研究&ワークショップをしたり、町のみんなと運動会をやったり、地域おこしのプロジェクトをしたりもしているので、ひと言で「芸術系」と言ってもいろいろこぼれ落ちてしまうものがあるのですが。

むしろどちらかと言うと、そういう体や人間同士のコミュニケーションを通じた活動の方が大事なのかな・・と書きながら悩み始めていますが。
とはいえ、「情報」や「文化」といったキーワードは共通してるかな・・

はい。で、そういったことを含めて、そのYCAMで渡邉さんが普段どんなことをしているのか? ということをいろいろお聞きしています。

今回の媒体は『GeekOut』という、ITエンジニア向けの転職支援サイトが運営するメディアなので、切り口としてはIT系、とくにはプログラミングやソフトウェアの活用に関わる視点が多いですが、綺麗な写真も交えつつそこそこコンパクトにまとまっていると思いますので、ご興味ありましたらぜひどうぞ。

https://geek-out.jp/column/entry/2018/06/21/110000geek-out.jp