103

自由な仕事ぶり

新入社員歓迎ランチ。@会社近所のフレンチ。今年の1月に2名の社員が入社したので、そのお祝い。新入社員とは言っても、どちらもベテランだが。1人はエンジニアで、もう1人はカスタマーサポート。

サポートの新入社員はぼくよりずっと確かな実績を積んでいて、これまでに携わった内容も期間もえらいすごい。それに加えてエンジニアとしての経験もあり、これまた趣味でRubyPerlをぺたぺた触っているぼくとは格が違う。

とはいえ、会社的には先輩だから、先人として知っていることをあれこれレクチャーしていく。やる気のない人に教えるほどつらいことはないが、もちろんというか、やる気のある人だから教えるのは面白い。これがやがては相談相手になっていくのだろう。

昔から、年下の人と組んで何かをするのは向いている感じがあった。これも結局教える構造になるからだと思われる。逆に、年上の人に囲まれて教わるような立場になると、いつも「もっと良い方法があるはずなのに、なぜこんな不合理なことを・・」とか思いがちだった。

考えてみると、今の会社でぼくはたぶん最年長に近いから、それでけっこうラクをしている感じもある。「それは違うだろう」と思えばすんなり言えるし、「あ、間違えた」と思ったら「さっきは間違ってました」としれっと言える。ぼくを攻撃しようとしてくる人がいないから、とりつくろう必要がない。

嘘をつき始めると、その嘘を以後守り続けなければいけないから、まともには生きていけなくなる。嘘をつかずに生きるためには、みっともなさを引き受ける必要がある。自分を大きく見せようとすることを、禁止しなければいけなくなる。それはそれで不自然なのだが、それをやめないと嘘という面倒なオプション料金を払い続けなければならなくなる。それが負担だから、みっともなさの方を引き受けることになる。

scholaをやっていたときは、年上の人が多かったが、それは職場の上司とかではなく、それぞれが独立したフリーランスみたいなものだったから、あまり精神的な負担はなかった。イヤだな、と思ったらいつでもやめられた。しがらみというのか、抜けられなさみたいなものは不思議なぐらいなかった。いわば、いつも辞表が引き出しに入ってる状態。それは同時に、いつ仕事を切られても文句を言えない状態でもあるが、それでよかった。

scholaは2巻か3巻ぐらいのときから、もう代わりがいないような感じになっていたから、作業自体は大変だったが、誰かからハラスメントを受けるような、人間関係のプレッシャーみたいのはまったくなかった。「いつでもやめられる、やめられたら困る人間」になれば、やめたくなるようなことは言われない。

前にも書いたかもしれないが、たしか4巻を作り終えた頃、commmonsの事務所の一角で、坂本さんのニューイヤースペシャルだったか、scholaの選曲座談会をラジオで流すような機会があって、それの構成をいきなりやることになった。座談会のベタ起こし原稿をプリントアウトして、それを色ペンでマーキングしながら番組内容を組み立てて、その脇でエンジニアさんがPCのソフトですぐに音声をエディットしていく。番組のトータル時間は決まっていて、それにピッタリ合うように、録音した座談会音源のあっちこっちをメタメタに切り刻みながら、あたかも最初から最後までその順番で話したかのように再構成した。

後から放送を聴いた坂本さんが、「当日に喋った内容そのままじゃないか」と言っていて、あんなにめちゃくちゃに切り刻んだのに、そんなに自然に聞こえたのか・・と不思議な感じがした。もちろんそれは高評価などではなく、文脈的に「つまらなかった」ということだろうから、大いに反省したし、落胆もしたけれど、その批判的な意図とは別にちょっと自信を与えられたところもあった。

その作業をしていたときに、scholaの校正をしてくれている人がたまたまcommmonsに立ち寄ったので、少し立ち話をした。どういう話の流れか忘れたが、不意にscholaのブックレットについて、「一人で作ってますよね!」と笑いながら言ってくれた。今思い返すと、そこには「なんでそこまでやってんの?」というニュアンスもあったかもしれないが、とにかくぼくは驚いて、「どうしてわかったんだろう」と、そのときも思ったが今もこれを書きながら思った。その人は普段のメールのやり取りでは結構いつも厳しくて、僕は怒られてばかりという感じだったから、余計に思いがけない評価というか、湧き上がるような喜びを感じもしたが、しかし「そんなこと誰にも言ってないのに」という驚きの方が大きかった。

ラジオの音源ができた後、どこかのスタジオで行われた放送前のマスタリングにも立ち会った。何かを言わなくてはいけないと思ったからか、「そこはもうちょっとフェードアウトを早く・・」とか何とか、こまかい部分に口を出したりしていた。今思うと夢の中の出来事のようで、現実のこととは思えない。そんな指示をできるはずの人間ではなかったのに。

以前に村上春樹が訳しているから、というだけの理由でポール・セローの『文壇遊泳術』という短編小説を読んだけど、あんな感じ。主人公は小説家でもなければ何者でもない人間で、しかしなぜかその立ち振舞いの上手さから、社交界では「最近スランプでなかなか書けないが実力のある小説家」として扱われる。*1

ことあるごとに、その話を思い出す。上記の自由さ・不可思議さはそれを想起させる。

*1:何十年も前に読んだ記憶だけで書いてるので全然違うかも。