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割に合わなくても面白い方を取る

  • 仕事は午前のみ。午後は有給を取って、最近検討している家電の下見に量販店まで。
  • 実機(?)を手で触っていろいろ確かめ。なるほど。ほとんどもう、これでいいんじゃないの、という感じ。
  • 外は雨。冷たい。
  • ここ数日、相談が進んでいたアドベントカレンダーが正式にリリース(というか)された。

adventar.org

  • この企画、これで3年目。すべてオーナーははてな編集の毛利さん。
  • 初年はたしか、Twitterか何かで「編集者とかのアドベントカレンダーなんてやったら誰か書くかな」みたいなことを言っていたのを見て、「やりますよ」みたいな反応をしたのがきっかけだったような。
  • それもどこかですでに書いたかもしれないけれど、ぼくはぼくで以前からテック系編集者とかがアドベントカレンダーやったら面白いのに、と思うだけは思っていたので、「お?これは実現するかも?」と思って全力で船に乗っかった感じ。
  • その年はとにかく毛利さんの巻き込み力が炸裂して、ぼくもたしかラムダノート社の鹿野さんをお誘いしたりしたけれど、とにかく錚々たる顔ぶれがそろって90%ぐらいは更新されたのではなかったか。
  • 2年目も話を聞いた段階で挙手して、でもこの年はけっこうひっそり、あまり声をかけすぎずに、やりたい人だけやればいいよね、という感じで控えめにやったら本当に控えめな感じになった(笑)。全体の3分の1ぐらいしか埋まらなかったのかな〜。でも、個人的にはそれはそれで全然良かったと思う。
  • で、3年目の今回。やっぱりその呼びかけというか、いつものように「もし今年もやったら書く?」みたいな話を見かけて、最初は「今年はけっこう忙しいからな〜、どうしようかな〜」と悩んでもみたんだけど、でもやっぱり、たしかにやらなければそれだけ自由時間が増えて体はラクなんだけど、んー、そんな人生つまらないかもな!と思って、挙手。そしたらそれに続く人たちもいて、ある程度人数が集まったので「じゃ、今年もやりましょう」ということになった。
  • それで思ったんだけど、そういうときのぼくの役割ってこれに近い。

www.ted.com

  • これの、「最初のフォロワー」というやつ。ぼくは最初の1人(リーダー)にはなれないが、たぶんその人とほぼ同じかその前ぐらいにそれと同じことを考えているから、そのアクションを見たときに早めに体が動く。で、一緒にやりますよ、ということになる。(もちろん関心があればだが)
  • 大変なことは、面白い。ラクや快楽の中には面白さはない。ラクは苦痛を取り除いた先にあるが、そのラクを続けていると苦しみが待っている。不思議なものだが。その苦しみとは、驚きとか、新鮮さとか、面白さとかから遠ざかっていくことの苦しさで、「退屈」と言い換えてもいい。退屈は苦しみだ。少なくともぼくにとっては。
  • 面白さとは大変さや負担、そしてこれもある意味での苦しみと共にある。疲れるし、割に合わないことも多い。でもやっぱり、目が覚めるような面白さ、それはつまり、頭の中身が、目の奥の方に鎮座していた何かが、ぐるっと裏返ってしまうような驚きや嬉しさのようなものだが、それにいつも出会っていたい。それこそが、ぼくには人生の意味だと思える。
  • 上で言う「ラク」と「面白さ」はつねに対立するものということはなく、時には共存するが、時にはどちらかを取らなければいけない。多くの場合、ぼくは進んでラクを取るが、最終的には面白さの方を取れるようでありたい。
  • なお、ここで言っている「ラク」「快楽」「面白さ」「退屈」といった言葉が指し示す中身は、あくまでこの文章の中でだけ通用する、暫定的・便宜的な表現にすぎない。他の誰かにとっての、あるいはぼく自身に対してですら別の状況においては、それらの言葉を別の意味で使う。
  • だから、「快楽と面白さはイコールだ」という人がいても全然問題ない。単に、そこで言う「快楽」や「面白さ」とぼくがここで言っているそれらの中身が違うというだけのこと。ここでは初めから、「時に共存するが時にどちらかを選ばなければいけない別々の何か」にそれぞれその名前を異なる名札としてくっつけているので、その成り立ちからしてイコールにはならない。
  • 余談だが、そのような言葉(というか語句というか)そのものが固定的な内容を持っていると信じて疑わない人も世の中には少なくなく、それによって生じる争いもまた少なくない。前提を、つまり「言葉の定義」を、揃えないとまともな話は本来できないのだけど、あまりそういう前提が踏まえられていない状況が多いように思える。
  • もちろん、というか個々の語句が持っている「さしあたってこういう意味にしておきましょう」という意味は辞書に書いてあるが、それも辞書の著者によって変わったり、同じ辞書ですら版を重ねるごとにその内容を変えたりするわけで、言葉はあくまで「一時的なラベル」または「容器」に過ぎず、その中身はつねに流動的で変化し続けている方が本質だから、そのような前提で考えてほしい。