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嫌いなまま許容する

全人類と仲良くする必要はないし、できない。その努力も、取り組みもしない。

一方で、全人類と仲違いすることも難しい。きっと誰かとは、上手くいってしまう。仲良くなってしまう。

意見が異なる誰かと出会ったとき、自分が相手に合わせるか、相手が自分に合わせるか、ゴールはそのどちらかのみであり、片方が折れるまで戦い続けなければいけないのだと思っていた。

しかし、仮にそのようにして一人を倒したとしても、その向こうには無限のように多くの意見が異なる人たちがスタンバイしていて、だからそんなことをしていたら、一生戦い続けなければいけなくなってしまう。

そんな人生でよいのだろうか。自分が好きなことをして、それを味わい、限られた人生を生きてゆきたかったと、思いはしないだろうか。

たった一つの狭い部屋に、意見が異なる人たちといつまでも暮らし続けなければならないのならばともかく、実際には、道を1本曲がればもう一生、二度と会わないような人たちとの間で、意見を一致させるための戦いが本当に必要だろうか?

長い戦いの末に、ようやく意見の一致を見たとしても、その後に自分の考えが変わってしまったらどうなるだろうか。またイチから、これまで意見を統合し、納得し合ってきた相手たちと、新たな戦いをしなければならないのだろうか。

つまり、他人と意見を一致させることに大した価値はない。自分自身の中ですら、考えは常に変わる。考えが変わらないということは、考えていないということだ。

価値があるのは、意味があるのは、我々の誰もが、自分の人生を豊かに、思い通りに、自由に生きるということだ。それを実現するための方法を考え、実践することだ。

ラーメンが好きな人と、カレーが好きな人がいるなら、それぞれで食べればいい。どちらかが無理に相手に合わせて、食べたくないものを食べる必要はない。

相手のことが嫌いでも、わざわざ好きになる必要はなく、また好きになるために相手を変える必要もない。嫌いな相手のまま、互いに生きていることを許容し合える社会が理想だ。