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人生に無駄なことなんてないとは言うけれど

年末に会社で行われた大掃除はなかなか新鮮だった。そもそも会社員として年末を過ごすのが人生で初めてのことだから、その中でさらに年に一度のイベントとなれば新鮮なのも当然だけど。

大掃除とは言っても、同日午後の途中ぐらいから、手の空いた人から順次始めましょう、みたいなフレキシブルなもので、この風通しのよさがまたヴェルクっぽいと思ったりもするけれど、とにかくそんなふうにゆるく始まった掃除のさなかに目を引いたのが、同僚が手入れをしていた加湿器のフィルターで、こんな感じのもの。

ダイニチ 加湿機交換用 抗菌気化フィルター H060518

ダイニチ 加湿機交換用 抗菌気化フィルター H060518

1本の長ーいフィルターが何重にも折り畳まれていて、それが結果的に分厚いフィルターになっている。何枚もの別々のフィルターを束ねているのではなく、元は1本(1枚)であるというそのことに、どこかにいるはずの名もなき誰かが思いついたのであろうその工夫に、何というか、感心してしまった。

そしてこの1本の何かがジグザグに折り畳まれて1つの筐体に押し込まれているそのさまを見て、なんだかこれ、小腸みたいだなと思った。

それからさらにしばらくして、あれって小腸のようでもあるけど、文章のようでもあるな、と思った。

文章は一般に、複数の行や段落、あるいは節や章が、元々はバラバラだったそれらが積み重なって、構成されて成り立っているように思われがちだけど、実際には1ページめの1行めの行頭から、最終ページの最終行の行末まで続く長ーーーい1行の文で、それが何重にもジクザグに折り畳まれて「本」という筐体に押し込まれているものだと見ることもできる。

というか、今までそんなふうにイメージしたことはなかったのだけど、その加湿器のフィルターのあらわになったさまを見たところから連想が重なって「ああ、文章って、本って、結局1行なんだな」と思ったということ。

そしてそこからさらに連想が続いて思ったのは、もちろんというか、やはりというか人生のことで、人生もまた、生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで長ーーーく続く1行の文のようなもので、これを何重にも折り畳んで、本のようなひとつ所に詰め込んだものがのちのち振り返られる「人生」になるのかなと想像した。

人生を一冊の書物に喩えることは古くから多くの人がしてきただろうけど、本というものを1行の文を折り畳んだものだとイメージしながらそう喩えている人は少ないかもしれない。

そのような前提で「人生」を「本」に置き換えて考えてみると、その書物の1ページめの1行めには、ぼくが生まれたときのことが書かれていて、最終ページの最終行の行末には、ぼくが死んだ瞬間のことが書かれているだろう。

その本の総ページ数が何ページであるかはわからないが、たとえば320ページぐらいだったとして、ぼくが80才で死ぬとしたら、43才〜44才の間にある今は175ページめぐらいだろうか。

となれば、先日の就職は1ページ手前の174ページで、scholaの編集を始めたのは2008年だから132ページぐらいで、趣味のプログラミングに本腰を入れて取り組み始めたのは152ページ(2013年)で、菊地成孔さんの音楽私塾に行き始めたのは(それは人生の転換点だったが)2004年の2月だから116ページ前後だろう。

ヴェルクに応募したとき、ぼくはプログラミングを始めてからすでに5年経っていて、そのことは大きなアドバンテージになったと思う。そもそもプログラミングをやっていなければ、IT企業への転職なんて考えもしなかったか、相当高いハードルだと思って怯んでいたことだろう。

だけどもちろん、5年前にプログラミングを始めたときには、「のちのちIT企業に応募するときに有利になるだろうから」なんて理由でそれを志したわけではなかった。少しは「仕事をしていく上で強みになるかも」ぐらいのことを思っていたかもしれないけれど、それはどちらかと言えば「プログラミングぐらいできないと仕事がなくなる」という危機感のようなものと言った方が近くて、とくに勝算があったわけではなかったし、それより何よりただぼくは、「プログラミングができたらカッコいいよな」とか、「そんなカッコいい自分になりたいな」と無邪気に憧れていただけだった。

ふたたび本のページに喩えるなら、プログラミングをやり始めた頃のぼくはまだ152ページ辺りを歩いていて、20ページ先の174ページ頃でそれが転職に役立つなんてまったく想像していなかった。

人生の本を読むときに、先のページを読むことはできない。できるのは、過去のページをめくることと、先の方で何が書かれているのかぼんやり想像することぐらいだ。

年をとったら視力が衰えるから、今のうちに目を大切にしておこう、あまり目に無理をさせないようにしておこう、と最近ぼくはよく思う。でも、その時が具体的にいつやってくるのか、人生の何ページめから目が見えづらくなるのかはわからない。もしかしたら、視力が落ちる前に事故や病気で死んでしまっているかもしれない。

プログラミングがぼくの役に立ったのは、ぼくが174ページまで生きられたからで、その前に死んでいたら、少なくともそのような役立ち方はしなかった。

人生に無駄なことなんてない、と人は言う。失敗しても、それはやがて何かの役に立つのだと。そうかもしれないが、それが役立つ前に死ぬこともある。

好きな人や物が多過ぎて/見放されてしまいそうだ

と歌ったのは椎名林檎だったか。

いくつもの輝かしい可能性を前に、そのすべてを何度も手に取りながら、そのどれも生かせないという日々を、気がつけばいつものように送っている。

いま趣味や学習につぎ込んでいるこの時間や労力は、人生という書物の何ページ先で返ってくるだろうか? 投資したそれらは、生きているうちに利息とともに返ってくるだろうか?

人生は永遠ではないから、すべての可能性を並行して抱えていくわけにはいかない。一つひとつ、1行ずつ順番に、選んで読んでいくしかない。しかし目の前に置かれた可能性のうち、どれがこの先のページで再び現れるのか、どれがゆくゆく「役に立つ」のかはわからない。

人生に無駄なことなんてないとは言うけれど、そのように言えるのは、伏線を無事に回収できた人だけではないか。あるいは回収できなかった人が、自分を肯定するためにそう言い聞かせるのだろうか。

しかし考えてみれば、「のちのち役に立ちそうだから」というだけの理由でそれに取り組むのはなかなか苦しい。ぼくのプログラミングにしても、「お金になるから」というだけだったらここまでは続かなかっただろう。何しろ貴重な睡眠時間を削って、誰に頼まれたわけでもない自分だけのコマンドラインツールを何度も書いては直し続けて、気がつけば朝になっていたりする。そのハマったり解決したりするのが純粋に面白いからやってきた。

伏線など回収されなくていい、未来のページになんか出てこなくてもいい、今はただそれがやりたいのだと、寝ても覚めてもそれをすることしか考えられないのだと、そんなものがあったら幸運だ。そういうものを見つけて、そういうことをしていきたいのだと今これを書きながら思った。