前回の内容は以下。
けっこうな量になったので一旦そこでやめたのだけど、もう少し続きがあった。
補足
- まず補足なのだけど、前回は「基本情報技術者試験を受けたのがきっかけで文系について考えるようになった」的なことを書いたのだけど、よくよく思い出してみると、実際にはそれより少し前にTwitterで「国語をちゃんとやれば論理的思考が身につく!」みたいな話を目にして疑問を持ったことがきっかけだった。
- そのツイートは今ざっと探したけど見つからなかった。似たようなのはいくらかあったが。
- 疑問、というのは個人的には「国語をやって論理的思考が身につく」とはあまり思えないということ。
- 国語をやる、というのは基本的にはとりあえず「文章をよく読む」ということだと思うのだけど、いろんな文章をたくさん読んでわかることっていうのは、結局「いろんな人がいる」ということに尽きるのではないかと思っている。
- 少し言い換えると、「いろんな考え方がある」ということだけど。
- 一方で「論理的思考」というのは、ぼくにとっては「よくよく考えれば誰だってそう考えるよね」というものであって、その意味では国語より算数に近い。
- 「1個100円のリンゴを2つ、1パック300円のイチゴを1つ買った。合計いくら?」みたいな感じ。
- これで回答者によって答えが違ったら困る。
- そして論理的思考とは、そういう「回答者によって答えが違ったら困る」ものだと思う。
- しかし国語で、というかいろんな文章を読んでわかることというのは、「え、そんな考え方があるのか!?」という驚きであり、その体験を通して「自分の知らない世界がまだまだ広がっている」という事実を知ることだと思う。
- あとは、今は「忖度」という言葉が空前のブームだが、「この人はクチでは賛成しているようだけど本当はイヤなのかもしれない……」とかいうふうに、他人の気持ちをいろいろ想像するようなことも国語の勉強を通して学んでいけるとは思う。
- 「主人公の気持ちは次のどれか?」みたいな問題とかまさに。
- 話を戻すと、だからその「国語をちゃんとやれば論理的思考が身につく」という論はよくわからない。その論は果たしてどこまで論理的なんだろうか。
- ちなみに、前回の文章でぼくは
文系の人は自分の想像と経験だけでものを言う
- と書いたのだけど*1、これをもう少し言い換えると、文系というのは「その豊かな想像力を駆使して飛躍した論理を操る」ということになって、それはまた「論理的ではない話をあたかも筋が通っているかのように話す」ということになる。
- で、上記の論についてもなんとなくそういうフシがあるのではないのかなあ……という印象を持ちつつ、「いや文系っていうのはそうじゃなくて、こういうことじゃないのかな?」という感じで前回書いたようなことを考えはじめた気がする。
前回の続き
- さて、それはそれとして、前回の続きとして記しておきたいことがあったので、以下ではそれについて。
- どうも一連の論旨として、いわゆる「文系」の人に悪いことばかり言っているような気が自分でもするが、それはべつに目的ではない。
- では目的は何かというと、「文系や理系に関する話がいろいろあるけど、大半はそもそもの文系・理系の定義が曖昧すぎるだろ。もうちょっと前提を一致させてから話してはどうか? というか少し考えてみようか?」みたいなこと。
- 実際には、前回の最初の方にも書いたように、ここでそういう定義というか再定義を行いたいわけではない。
- そんなことしてもいろんな人のオレオレ定義と突き合わされて「それは違う」と言われるだけだろうし。
- それで前回やったのは、「多くの人は大体こんな意味で言ってますよね?」的なイメージをざっくりまとめるということ。
- それで出てきたさしあたっての結論が、たとえばさっきも挙げた
文系の人は自分の想像と経験だけでものを言う
- であり、あるいはこんな感じのこと。
文系という言葉が無能力の言い換えで使われてるケースが多い気がするな・・
— Hiroaki Kadomatsu (@note103) 2017年5月28日
- ちなみに、このツイートをしたのは以下のツイートを見たのがきっかけだった。
- (その人やいいねした人を責めたいわけではないのでIDとかは隠してる)
- 上記に近い感じだと、「文系は怠け者」とか。「勉強を嫌いな人」とか。そんなイメージがありそう。
- しかし言うまでもなく、実態がそんなふうであるはずはないよねえ。という話がここから。
- 前回も書いたように、基本的には「文系」というのは「いわゆる理系以外はぜーんぶ」みたいに扱われているとぼくは感じている。
- しかしそれを前提としてしまうとさすがに話を進めづらいので、ここでは古文書などを読み解く歴史家を例として考えてみたい。
- 江戸時代とか室町時代とかを専門とする研究者がいたとして、その人は一応、普通に考えたら「文系」だと思う。
- 現代において様々な過去の出来事がわかるのは、そういう人たちが頑張っているからで、だから「文系は怠け者」とか「無能力」みたいな指摘はこの時点ですでにあたらない。
- また、歴史を扱う論文や学会などでは当然、「このデータとこのデータが揃ったら、まあ結論は誰が考えてもそうなりますわね」という、いわば再現性のある結論に対して皆が合意するはずだから*2、その意味では「いわゆる理系」がそうであるように、文系にもまた論理性や科学性というのは普通に宿る。
- 翻って、「いわゆる理系」の道を歩む人の中にもまた、「怠け者」や、あまりその分野には向いていない(つまり周りからは無能力だと思われてしまう)人もいるはずで、そういう特徴が文系だけに認められるとは考えづらい。
- そしてそこから言えるのは、結局のところ「文系・理系」というのは、大学の学部とか進路をざっくり分けるためのものとしてはそれなりに有用かもしれないものの、少なくとも人間の有能・無能を分ける観点にはならないだろう、ということ。
- いわゆる文系にもいわゆる理系にも、それぞれちゃんとやってる人もいれば怠けてる人もいるだろう、文系だからどうとか理系だからどうとかはないだろう普通。という、書いてみるとそりゃそうだ、としか言えない話になってしまうのだが。
- ただし、それでも算数的な「計算」というのはなかなか体力や経験を要するもので、なおかつ「算数が得意/苦手」というのはそれぞれの人生を大きく分けかねない要素であるようにも見えるので、その辺が上記のような「文系dis」につながる要因になってるのかな……という気もするが。
- そして、ここで不意に出てくるのが「体育会系」と「文系・理系」との関わりである。
- 前回は文脈上「体育系」と書いたのだけど、一般的には「体育会系」の方が使われがちな言葉だと思えるので以下ではそうする。
- 体育会系というのは、どうも「頭では何も考えてない人たち」のように使われがちの言葉だが、実際には前回提示した「楽器の練習」などの喩えからもわかるように、「算数」や「計算」をはじめとする「学習」というのはどれも非常に体力を使うものである。
- よくマンガでもTVでも、いまだに「勉強のできる子(=ガリ勉・秀才)は体育ができない、体力がない」みたいに描かれがちだが、実際は勉強するにはめちゃくちゃ体力や忍耐力が必要なので、本当に勉強をやっている人はスポーツ系の部活動をやっている人たちと同じような肉体的努力を普段からやっている。
- それがわかったのはぼく自身が最近になっていろいろ資格などの勉強をしているからで、言い換えるとまあ、ぼくはこれまで全然勉強しない「怠け者」であり続けていたわけだ。
- その怠け者だった自分がちょこちょこと勉強を始めて思ったのが、「勉強って、こんなに疲れるのか!」ということで、これも前回少し書いたが、それまで知らなかった知識や考え方を覚えようとすると、とにかくすぐに眠くなる。
- 一瞬話がズレるが、よく中高生が授業中に眠ってしまうが(いや、自分は大学でもよく講義中に寝ていたが)、あれは怠けているとか、勉強を軽んじているとか、ましてや先生を馬鹿にしているとかではなくて、「勉強しようとしているからこそ猛烈な眠気に襲われている」のかもしれない、とそのとき初めて思い当たった。
- 話を戻すと、だから「体育会系」というのは少なくとも「理系に対置する」ものではなく、また「文系に包含される」ものでもなく、理系でも文系でも一生懸命勉強なり研究なり仕事なりしている人は体育会系的であり、やってない人は怠け者である。
- 単純に「怠け者=悪」と言いたいわけでもないのだけど。
- さらにここでもう一つ、「芸術系」というのも並べて挙げておきたい。
- 芸術系というのは、くり返し述べているように美大の油絵科に入ったぼくなどはまさにそれと言えるだろう。
- あるいは、ミュージシャンを目指してバイトで食いつないでいる人とか。
- またあるいは、マンガ家、小説家、俳優、アイドル、ダンサー、映画監督……そういった表現者の人たちもそう言えるか。
- こういう人たちはどうなのかというと、やはり芸術系だからといって皆が皆一生懸命なわけでもなければ、逆に皆が怠けてるわけでもなく、ちゃんとやってる人もいればテキトウな人もいるはずである。
- まあ内容が内容だけに、「一生懸命やってれば夢は必ず叶う」とも限らないのがつらいところだが(何が当たるかわからないというか)、ここでもまた、結局「〜系だからマジメ/不真面目」とは言えないということ。
- ついでに言うと、上では歴史の研究者を文系の例として挙げたが、では税理士や建築家は何系だろうか? 彼らは様々な数字や公式を使うように思えるが、理系だろうか? 漁師はどうか? 消防士は? 靴職人は? ……とまあ、文系にも理系にも当てはまらない人々は世界にずいぶん多くいるように見える。
- つまり、前回の話の続きとしてここまでは言っておきたかった、というのは、「文系・理系で分けられる対象なんて世界のほんの一部に過ぎなくて、分けて意味がある観点といったら『ちゃんとやってるか/やってないか』とかじゃないの?」みたいなことだった。
- とりあえずそこまで話が辿りついたので終わろうと思ったが、今読み返したらちょっと言い足りてないところがあるな、と思ったのでそれを書いて終わる。
- 少し前に以下のような話題があって。
- ここで試みられていることは明らかに「理系」に分類されるはずだが、STAP論文がそうであったように、この研究成果を科学的とは言いがたい。
- 一方、研究リーダーをはじめ当事者の人たちがこの研究をテキトウにやったとか、努力をしなかったのかと言えばそんなことはないだろう。
- 何を言いたいのかというと、上では「ちゃんとやったか/やってないか」の方が(「文系/理系」の分類より)大事、と言ったわけだけど、それは「一生懸命頑張ったか/頑張ってないか」とイコールではないということ。
- この内閣府のプログラムでは本来「科学」が求められていたのであり、「実現性はわからないが夢のある話」が求められていたわけではないのだから、どれだけ一生懸命やったとしてもこの内容だとちょっとまずい。
- 逆の例としては、たとえば映画のラストシーンで、誰もが「この展開でこう来たら……ラストはああなるよな、普通……」と予想していたら本当にそうなった! みたいな展開だと芸術系のプロとしてちょっとまずい。
- TVの時代劇とか吉本新喜劇のように、予定調和の面白さ(と、それでもわずかに生じるズレ)を味わうものならそれでもいいかもしれないが、「見たことのないものを見たい、体験したい」と思っている受け手に対して、想像通りのオチを渡してしまうのは逆に期待を裏切っている。
- ここでもまた、「努力したからいいってもんじゃない」という状況は生じる。
- つまり、上で言った「大事なのは『ちゃんとやってるか/やってないか』」というそれは、単なる努力の総量ではなくて、そのとき必要とされていることに向かってどれだけの力を尽くせたか、みたいなことを指している。