103

文系について

  • 以前からつらつら考えていたものの、あまりまとまらないのでまとまらないまま列記していく。
  • Twitterなどを見ていると、「文系」や「理系」といった言葉を使った話題が少なくない。
  • それはそれで面白いのだけど、どうも人によって「文系・理系」が指し示すもの、つまりそれらの定義がバラバラだったり、曖昧だったり、曖昧なままバラバラだったりしているように見える。
  • 定義が異なるまま話していると、意見が対立しているようでも実は定義を揃えたら同意見になってしまったり、その逆に見解一致していると思ったら前提が真逆だったり、そういうことが起こりうるので効率が悪い。
  • といっても、ここでやりたいのはそれらを再定義する、ということではない。
  • また、それらの言葉の起源を辿りたいわけではない。そういう関心はない。
  • ここでやりたいのは、人々が「文系」「理系」というときに、頭の中で思い描いているものは何か? ということを知ること、または仮想することである。
  • 上記のように、それらは時によってバラバラだったりするようだけど、それでも共通する「文系ってこんな感じ」というイメージがあるはずで、それを最大公約数的に、「ここからここまではけっこう共通するよね」と取り出したい。
  • それによって、上では「そういうことはやらない」と言ったものの、結果的にはそれらの言葉の再定義(の提案)みたいな感じにはなるかもしれないが、目的はそれよりも、「前提を揃えるヒント」になればという事にある。
  • まず文系・理系という切り分けについてだが、その不毛さというか無意味さみたいなことについては、もう何年も前に東浩紀さんがTwitterで言っていた気がする。
  • わざわざ検索とかはしないが、当時それをリアルタイムで見て、「なるほどな〜、たしかにそうだな」と思ったような記憶がある。
  • しかし、一部の識者が「そんなのは無意味」といったところで、人々は今なお飽きることなくそうしたカテゴライズを続けているように見える。
  • これは単純に、現行の高校や大学といった進学先がそのようにカテゴライズされ続けているせいかもしれないが、そうであるなら、まだしばらくこの先も、そういった用語が飛び交うこと自体は避けられないように思える。
  • ではあらためて、多くの人々は「文系・理系」といった言葉を使うときにどんなイメージを持っているのか?
  • まず理系について。これは単純に小学校で教わる「理科」の延長にあるものがひとつ、すぐに浮かぶだろう。STAP事件で話題になった理化学研究所でやってそうなこと、とか。
    • その他だと機械工学的なことも理系かな、という気が個人的にはする。電子工作とか。2進数とか使うようなやつ。
    • その流れでロボットを作るのとかも理系っぽい。たぶん。
    • AIとか機械学習とかも。あと宇宙的なやつ。ロケット飛ばしたり。
    • あとは数学? これも少なくとも「文系」という気はしない。
  • じゃあその逆に、「文系」ってなんだろうか。
    • わかりやすいところでは、これも小学校で言う「国語」の延長は少なくともそれだろう。
    • 文学部。英文科。この辺は文系か。
    • あと上記の理系と全然関係なさそうなところで歴史とか哲学とか。
    • その他だとちょっと微妙なのが経済学。これは一般的には文系かもしれないが、実際にはめちゃくちゃ数字や公式などを使う気がするので、個人的には文系には入れづらい気がしている。
    • それからいわゆる体育系、芸術系はどうだろうか?
    • 思うに、普通の人は(ぼくも含めて)その辺も全部まとめて「文系」に含めてしまっている気がする。
  • で、ここまでの話を踏まえて思うのは、「とりあえず理科や数学っぽくないやつはぜーんぶ文系ね!」みたいな雑なカテゴライズが人々の中にはあるのではないか、ということだ。
  • 「いや、そんなことないよ、俺はもっと厳密に分類して議論しているし、皆もそうだよ、キミが知らないだけだよ」という意見もあるかもしれないのだけど、ぼくから見ると世間はその程度の雑な前提で話しているように見えるということ。
  • そして文系・理系といった言葉を用いた議論を見てとくに気になるのは、「文系」というのがある種の蔑称として使われているように感じられることだ。
  • 「あいつは文系だから」と言えばその人を悪く言っているように聞こえるし、「私は文系なので……」といえば自分を卑下しているように聞こえる。
  • と同時に、それは必ずしもいわれのないことでもないと思えて、先日基本情報技術者試験というのを受けてきたのだけど(0.5点足りなくて落ちた)、これの勉強がむちゃくちゃ大変で、とにかく計算問題などの、上記で言うところの「理系的」な問題の理解するために多くの時間を費やしてしまい、こんなのを「基本」とかいってスラスラ解ける人たちはすごいな! と心底思った。
  • 頭の出来が違うというより、もう頭の筋力というか、頭の体力がまったく違う。ぼくの場合はちょっと考えるとすぐ眠くなってしまい、あるいは出来てもすごく時間がかかってしまうので、その都度そういうのが普通にできる(ように勉強してなった)人たちとの大きな差を感じたものだった。
  • そしてそのとき、ぼくはこれまで自分を「文系」だと思ったことはあまりなかったのだけど、つくづく「完全に文系」だったと痛感した。とにかく「計算」ができない。できても猛烈に時間がかかる。そういう筋力が育っていなくて、育てるにはこれから多くの時間と力を費やさなくてはならない。そういう場所にいる。
  • と同時に、その「完全に文系」だと自分で思ったときの「文系」とはそもそもどういう意味で言ってるんだ? と自問したのがこの記事の発端にもなっている。ぼくはどういう意味で自分を「文系」だと思ったのか。
  • それは端的に言うと、上記のような「(数学的)計算」がとにかくできないということ。
  • これをもう少し抽象化して(汎用性を持たせて)言うと、「客観的な事実やデータにもとづいて論理を組み立てることができない」ということであるように思えた。
  • 「論理」と言っても、たとえば今書いているような文章は、自分の中ではそれなりに整合性がつくよう論理的に考えているつもりなのだけど、そういう意味での論理ではなく、重点は「客観的な事実やデータにもとづいて」という方にある。
  • それは逆の視点から言い換えるなら、「非・理系」つまり「文系」というのは、「客観的な事実やデータにもとづかずになんかやる」ということになる。
  • それをさらにまたシンプルに言い換えると、「文系の人は自分の想像と経験だけでものを言う」ということになる。
  • べつに特定の誰かがそうだ、という話ではない。ぼく自身の中にある「文系」のイメージを極限まで煮詰めて抽出するとそういう表現になる、ということ。
  • 「経験にもとづく」のなら過去の事実を元にしているのだから客観的では? という気もするが、ここで言うのは「自分の経験」なので、それは自分の中だけで成立している、自分がこうだと思い込んでいる過去にすぎず、客観的とは言いづらい。
  • そこで上にちらっと挙げた芸術系の話に繋がるのだけど、ぼくは美大の油絵科を出たので、それはもう「想像と経験」のカタマリのような日々だった。
  • もちろん世の中には客観的な数値やデータにもとづいて制作を行う画家もいるかもしれないが、ぼくはそうではなかったということ。とくに明確な根拠や裏付けもなく、頭で想像したことを外部に表現というか実現しようとしていた。
  • そして思うに、世の中で「文系」と言われているものも基本的にはそのような人、つまりこれといった根拠も過去の事実もデータもなく、頭の中の想像と勝手な経験則だけをもとに強引な主張を行う……そういった傾向にある人を文系と呼んでいるのではないだろうか。
  • そういう人がいいとか悪いとかいう話ではなく(まあ良くはないが)、「どうやら少なからぬ人々は文系という言葉からそういった傾向をイメージしているらしい」という、共通のイメージを前提に置くことができれば、そうした言葉を使った議論も多少は効率的に行っていけるのではないか、ということ。