103

編集者の役割に関する随想

  • 最近考えていること。文章とは道案内のメモのようである。書き手の頭にある何かを読者にも見せようとして、それに至る経路を記す。「家を出て駅へ向かって歩いてください」「ポストの脇の道を右へ曲がってください」読者は言われたとおりに道を辿る。
  • 案内のとおりに本のページをめくりながら、そして最後のページに辿りついたとき、読者の目には著者の見せたかったものが映っているかどうか。結果は誰にもわからないが、著者の役目は最大限、それを運任せにせず厳密に指示を記すこと。
  • 編集者とはそれを一緒に読んで、「これだと迷子になりますよ。別の場所に行っちゃいますよ」と伝えること。しかし読者に何を見せたいのか、読者をどこへ連れていきたいのかを決めるのは著者。
  • いわゆる上手い文章というのは、その案内が正確で、読み手に誤解の余地を与えないもの。で、その上手い文章を作る役目はしかし、著者だけにあるのではなく編集者にもある。
  • というかむしろ、著者の一番の役目は「何を書きたいか」「何を読者に伝えたいか」ということだから、「どう書くか」「どう伝えるか」とかについては最初はむちゃくちゃでも構わない。そのむちゃくちゃな文章を、編集者と直していけばいい。
  • もっと言えば、編集者が全部直して、著者が最後に「これでOK」と言うならそれでもいい。
  • しかしいずれにせよ、そのようにできるためには編集者が著者の意図を明確に掴んでいる必要があって、それはなかなかホネの折れる作業でもある。とくに、最初の著者の文章がむちゃくちゃだったら、編集者がそれを解読すること自体それなりに困難になるわけで。
  • だから著者自身も文章が上手ければ、それに越したことはない。最初から高いレベルの文章があれば、同じ労力でもっと高いレベルのものを作り上げられる可能性が生じる。
  • 話を戻すと、文章は道案内のメモのようなもので、編集者は著者の書いたそのメモがより的確になるよう手助けをする。
  • このときにぼくがイメージしているのは、自分が自動券売機のようなマシンになっていて、そこには著者が書いたメモを入れる口と、編集者が編集を施したメモを吐き出す口の二つの穴が空いている。
  • マシンの中で何が起きているのかは誰にも(おそらくは編集者自身にも)わからないが、マシンは元のメモを読み込んで、不備を見つけたら修正して、修正後のメモを吐き出す。「こんにちは」と日本語で書かれたメモを入れたら、「Hello」という英語が書かれたメモが出てくる、自動翻訳機のようなものと言ってもいいかもしれない。翻訳機であり、変換機。
  • この変換機の中身が、編集者によって違う。同じ文章を入れても、出てくるものが違うということ。しかし同時に、そこへ入れる元の文章もまた著者によって、あるいは同じ著者ですら内容によって変わるわけだから、変換機の質の違いを測定したり、比較したりすることは簡単ではない気がする。
  • 編集者の存在意義というか、その能力や存在の効果測定について考えたことがあったけど、現実的に考えて、編集者だけでなくその元の文章自体も変数になる(状況によって中身が変わる)ことを思えば、果たしてそれを厳密に測定する方法があるのか、いまだに答えは出ていない。
  • では問いを少し変えて、「編集者は必要か?」と考える。これについてはけっこうシンプルな答えが自分の中にはあって、それは「著者が必要だと思えば必要」。逆に、同人誌やKDP(Kindleダイレクト・パブリッシング)のように、編集者を介在させなくてもリリースできる仕組みがあって、書き手がまずはそれらを使ってリリースすることを最優先したい、という場合には不要だろう。