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相対評価の良し悪し

最近、結城浩さんが連ツイで書かれていること、まったく同じではないだろうけど、自分が最近考えていたことと共鳴するところが多い。

今日だったら比較のことについて書いていた。その少し前だと、誰かを恨んで生きるのはやめよう、みたいな話。ほんとにちょうど自分もその頃、そういうことを考えていた。

というか実際には、自分がちょうど考えていることに近い部分を拾ってきて、「似ている」と勝手に思っているだけなのだとは思うが。

比較というのはぼくの関心に寄せていうと「相対評価」ということになるが、相対評価で考えてしまうのは多分ある意味自然なことで、放っておくとそっちに倒れてしまう、ということのような気もする。

昨日書いた、東京都の教育委員会が打ち出した愚策(といっても教育委員会のメンバーが愚かだと言いたいのではなく、報道を通して知ったかぎりではその策が理解不能と言いたいだけだが)に関する話も結局は「相対評価で測ってどうすんの?(笑)」みたいなことだった。

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幼なじみのAくんは現役で東大に入ったのに、自分はもっと低い点数で入れるはずの大学に何年も受かってない、となればやはりツライものはある。気にするなと言っても気にしてしまうのが自然ではある*1

しかし同時に、その比較で得られる情報にはあまり意味ないよ、ということも言えそうで、相対評価が生きるのは、たぶん「今年も落ちたけど、去年よりは点数とれた」みたいなことかもしれない。

(あるいはある種の参加資格のように、枠が決まっているところに順番に入れていく、というのも手っ取り早く物事を決めていけるのでそういう使い方もあるだろうが)

唐突に聞こえるかもしれないが、育児休暇や夫婦別氏制に反対するみたいな、「自分も大変な思いしたのだからお前も苦労しろ」的な考えも、つまるところそのような相対評価的思考とつながっているように思える。

実際には周りの人が幸せになったところで自分の人生が悪く変わるわけではないはずが、想像の中ではそうではなく、他人の幸福度の上昇に反比例するように自分が不幸になっていく、と感じられてしまうから足の引っ張り合い的なことが発生するのではないか、とか。

限られた資産を分け合っているのであれば、誰かが多く取るぶん自分の取り分が減る、ということになるが、そのようなイメージが強く浮かんでしまうのかもしれない。

狭い社会、少ない人員構成による共同体、における活動だけを前提に考えるとそうなるかもしれないが、実際にはもっと世界は広く、誰かの所業一つ一つがすべて他の誰かに影響するなんてこと、べつにないですよ、みたいなドライな世界観が多く経験されればその辺は解消されるだろうか。

相対評価に話を戻すと、今ぼくは簿記の勉強をしていて、昨年11月に2級検定に落ちたので今月末の再受験に向けて仕事の合間に問題練習に励んでいる。なかなか大変だが、救いなのは合格基準が「70点」ということで、というのはその点数が救いなのではなく、相対評価ではない、というのが救いだ。

言い換えると、同時期に受験する人たちが失敗しようと成功しようと、まったく気にする必要がない。

ぼくは現在、近所の簿記を教える専門学校に不定期で通っているけど、そこにいる人たち(同時に同科目を受験する人たち)が、風邪でも引いて当日休めばいいのに、とは思わない。その必要がないからだ。これは偏狭で臆病で意地の悪い自分にとっては、そうした悪要素が顔を出しづらいという意味で大変助かる。

今自分が考えるべきことは、その70点を越えよう、というただ一点であって、まあ失敗したら、前述のように「それでも前よりは得点できたじゃないか」などと自分を慰めるかもしれないが、絶対評価の救いというのはだからそういうところにもある。

*1:後から思ったが、志望校が同じで結果が分かれた場合の方が相対評価的思考はより際立つかもしれない。