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夏がくれば思い出す

大学で一番仲の良かった友達が亡くなったのはちょうど10年前の夏で、ああもう10年なのか、と気づいたのはつい数日前だった。

今までそれについてなるべく話題にしないように、たとえばこういうところに書かないようにしていたのは、彼の不在を自分がうっとりするためのダシに使うような、またそれを他人に見せること自体が目的になるような、言ってみれば不純というか、そんな気がしたからだった。

そんなこと、わざわざ他人に知らせるようなことではないというか、誰だって多かれ少なかれ、そういう境遇にはあるのだし、世界に一つしかない発想を共有するというのでもなし、特別なことではないそれを、みっともない自己顕示欲を満たすために開陳するというのは、それこそみっともないと思っていた。

しかし最近になって、どうも彼のことを思い返すたびに、以前とは違う感覚が味わわれるようになってきた。それというのは単に「いなくなって残念だ」とか「あんなに若かったのに」とかいう一般的な、誰にでもわかってもらえそうな感覚とはちょっと違う、「ただ一人の僕」にとっての彼の意味というか、役割みたいなものだ。

単純な話、彼は大学の頃からその後の彼が生きている間ずっと、僕にとって一番、音楽やお笑いや趣味なんかの話が合う人間だったという事実が、当時から20年近く経つ今になっても変わっていないということ、言いかえれば、彼がいなくなった後、僕は彼以上にそういう話の合う人に一人も出会っていない、ということに気がついた。

気の合う友達や、深いレベルで話し合える、信頼できる人は少なくないけれど、音楽を奏でるように冗談を言い合い、冗談を言うように好きな音楽について語り合えるような、そんな友達は僕にとって、後にも先にも彼しかいなかった、ということに気がついた。

遠藤賢司のミルクティーではないけれど、もっとやさしくしてやれば、よかったわあという感じだ。

僕は煙草を吸わないが、大学の頃は彼の散らかった部屋で発泡酒を飲みながら煙草を吸った。それが懐かしい。発泡酒の冷えた6缶パックをコンビニやスーパーで買い込んで、つまみと一緒に彼の狭いアパートへ二人で歩く道を、僕はワクワクしながら楽しんだ。そのことに後から気がついた。やることはただ、ビールを飲んで煙草を吸って、音楽の話や最近興味のあることについてダラダラしゃべるだけで、未来に関する投資の要素は1ミリもなかった。

同じものを面白いと思える友達は貴重だ。あいつはこれを知らないだろうけど、きっと好きだから教えてやろう、と思える機会は貴重だ。宝だ。今井くんよ、君はそれを僕に与えてくれた。ありがとう。

僕が今何をやっていて、これから何をやろうとして、今何を面白いと思っているか、君に教えてやりたかった。きっと君はくやしがって、僕以上にそれについて勉強し、僕より詳しくなっただろう。あの時のように。
君に自慢したいことが沢山あるよ。もっと自慢してやりたかった。くやしがらせて、いい気分になりたかった。君はくやしがって、でも僕を恨まない。僕も君も、お互いを好きだったからな。

門松くん、それじゃホモだよ〜と、君はいつものようにヒョヒョ、と笑っただろう。そうだな、たしかに僕らはホモみたいだったかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいんだ。大事なのは、僕らがかつてお互いを必要とし、僕は今もそうだってことだ。君が生きているうちに、そう伝えなきゃいけなかった。君はかけがえのない存在だった。それをちゃんと伝えなきゃいけなかった。ごめんな。

君を思い出すたびに、僕はこんなに痛い思いを、胸が押しつぶされるような苦しさを、今後も感じ続けるのだろうか? と、10年前の今頃に、不安に感じたものだった。
しばらくして、そんなことはなかった、痛みも苦しみも、簡単にやわらぐものだと思ったが、最近その感覚が少しずつ、でも確実に、ぶり返してきたようだ。それは不思議な苦しさだ。苛立ちやもどかしさの混じった、心地よくはない感情だ。でも懐かしい。たぶんこれも、宝だ。