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匿名の相手と戦ってはいけない

ある種のネット上の議論においては、ネット特有の特殊な論法に長けた人というのがいて、その人がそのスタイルを守るかぎりは決して負けず、逆に本来であればまともな話をしているはずの方が論戦としては負ける、という状況が起きがちだと感じる。

もう幾度となく、そして無数の人によって語られてきたように、ネットでは相手の顔や声や立ち振る舞い、着ている服や年齢その他、ようは「見た目」がわからないことが多く、とくに「今この瞬間にどんな状況下でそれを言っているのか」がわからないので、それ以外の要素であるところの「文章」が非常に偏って大きな比重を占めることになる。

というのは、べつにその偏りが「悪い」ということではなく、むしろというか、より直接的なコミュニケーションである電話や対面を通しても人は振り込め詐欺マルチ商法の被害にあったり、夜の駅では酔っ払いに殴られたりとひどい目にはあうわけで、その意味ではネット・コミュニケーションの方がよっぽど安全とすら言えるわけだが、そうした良し悪しとは別に、「文章」をメインにやり取りするがゆえに生じる問題というのはやはりある。

そこで出てくる概念が「匿名」というもので、何しろ相手が見えないので、どこの誰だかわからないまま話し合う、ということが普通に出来てしまう。

そして上記のようなネット特有の論法に長けた人の中にはそういう人もいて、結論としては僕はあまりこういう人と異なる意見を交えてはいけないと考えている。

と同時に、その論を適切に述べるためにはここで言う「匿名」という表現が指す対象を厳密に定義しておく必要がある。
そしてひとまず、ここでその定義を簡単に言ってしまえば、僕が議論すべきではないと考える「匿名」の主要素は、「自分の都合だけでいつでも勝手に存在を消してしまえる人」である。

だから逆に言うと、ここで言う「匿名」とは、単に「戸籍上の名前を隠している」ということではない。
ペンネームでも芸名でもアダ名でも、その人が普段ネットで使っている仮の名前とアイコン画像を見れば、周りが「他の誰でもないその人」だと思えるなら、その人はもうここで言う「匿名」ではない。

よくネットで論戦をしがちな人が言うことに、「自分は実名でやっている人しか相手にしない。文句があるなら堂々と実名で文句を言え」みたいなことがあって、これは批判の的になりやすい。

というのも、そういうことを言う人の中には相手の職場に恫喝・脅迫まがいのクレームを入れて、社会的立場を脅かそうとする人がいるからで、そういう人がそういうことをするたびに「だから実名主義者は信用ならない」という風に、実名主義者とそれ以外の人との間には乖離が広がる。

一方、ここで僕が言う匿名とは、「職場や居住地その他の個人情報を明らかにしていない人」ではない。そのようなことは伏せたままでも、たとえば過去何年にわたりそのアカウント名で活動しており、今後も基本的にはその立場のまま活動するだろう、と思われる人となら普通に意見を交わせると考えている。

だからそうではない、Twitterのアイコンが卵のままだったり、投稿内容も含めて「他の誰でもないその人」と言える要素が少ない相手の場合、その人は何を発言しても責任を負う必要がないため、意見を交わすための条件が備わっているとは思えない。

実名を公開していなくても、そのアカウントを使用しづらくなることで少しでも困るような状況にあるなら、その人は不可避的に発言に責任をもつことになり、その立場を賭けて発言していることになる。
具体的には、もしおかしな発言をすれば、その人は周りから「あの人はああいうことを言う人なのだ」と思われ、その発言は以後その人の属性として付いて回ることになる。

つまり、異なる意見を交わす際に必要なのは「信用」であって、互いの信用を賭けて議論するときに初めてそれは議論として成立・機能する。

もしそうではない状況、たとえば「誰が言ったかは問題ではなく、このような考え方自体が重要なのだ」という風に、元の発言者を不問としたまま概念や考えを議論の対象にするならば、それは不毛の泥沼に足を踏み入れるようなものだ。

名もない通りすがりの男性が、少年野球のグラウンドで素振りをしている小学生に「うまいね」と言った場合と、イチローがたまたま帰国していて、同じ少年に「うまいね」と言った場合とではその「うまいね」の意味はまったく変わる。
前者の存在意義が後者より低いという意味ではなく、単に言っている内容(見ている対象やなぜそう思ったかという理由など)が違う。

言葉は「誰が言ったか」によって大きく変わる。誰が言ったかを踏まえない言葉は無敵のジョーカーのようなもので、想定される発言者によって内容が変幻自在に変わってしまうがゆえに厳密な話し合いには向いていない。

加えて言えば、そのような発言者が不確定である論理には、発言者をどのようなキャラクターにも設定してしまえるがゆえに、考える力のある聞き手ほど、自分の頭の中で勝手に強力な論理に仕上げてしまえる余地がある。

上の例を再利用すれば、発言者の元を離れた時点では野球の知識も経験もない人が気まぐれに呟いた「うまいね」だったはずが、受け手の想像力によってイチローが発言した「うまいね」に変わってしまう。この「受け手が勝手に意味を(発言者や前提を)変えてしまえる」ということが、不確定な話者による言説が抱える大きな問題性である。

上で述べた、「本名も勤め先も明らかではないが、他の誰でもないその人」として特定される存在を、ここでは「一意のアカウント」と呼んでおく。そしてこれは、ここで言う意味においては「匿名」ではない。

一意のアカウントには、「これまでこのようにネットでの活動をしてきた」という厳然たる過去と、それを踏まえて生じる「今後もこのように活動していくであろう」と想定される未来があり、それが上記で言う「信用」でもある。

またその「信用」とは、仮にその後の議論の末に、その人にとって不都合な事実が出てきたり、展開が不利に傾いたりしても、その人は議論を継続するだろうという見込みがあるということで、さらに期待するなら、もし明らかに間違いであるとわかった場合には、その人は素直に間違いを認めるだろう、という見込みまでをも含んだものだ。

少なくとも自分の場合、そのような見込みや信用がない相手とは、貴重な時間を費やして議論をすることはできない。

この文章を書いたのは、少し前に以下の記事で触れた、某氏のやや率直に過ぎる(と見られがちな)ブログ記事に対して、

はてなが誇る匿名の巣窟「匿名ダイアリー」で、無名の誰かによる反論的な記事が書かれ、僕が普段その意見を参考にするような人たちが数人、その記事を指して「いいこと言ってる」みたいなコメントをしているのを見たからだった。

僕はその記事を読んでいないし、そのような無責任かつ無敵の文章を読んだり分析したりすることに人生を使うことは今後もないと思うが、そうした素朴な反応が普通だとされてしまう社会はちょっと生きづらいな、別の観点を示しておきたいな、と思ってこれを書いた。

僕が普段参考にしているような、頭のいい人たちがその記事について「いいこと言ってる」と言ったのは、きっとその文章に残された余白(そこには本来「責任」が入る)を、読者であるその人たち自身がいい感じに埋めて「良い内容」に仕上げたからだろう。

ちなみに、冒頭でネットのコミュニケーションが対面のそれより「悪い」わけではない、と書いたのと同様に、僕はそのような匿名(一意のアカウントですらない匿名)を「悪い」と言っているわけではない。

たとえば企業の内部告発がそうであるように、発言者の存在を発言者自身の判断でいつでも取り消すことができるような機会は必要だろう。

あるいはSTAP事件の不正発覚のきっかけとなったネット上の一連の匿名記事も、当人たちがその気になればいつでも存在を消すことができる、掲示板サイトや無料ブログで行われた。

それらは議論のための投稿ではなく、不正を告発するための(取り上げてくれるのであればそれが誰でも構わない)内容だから、そういう場合はそれでいい。

またそうした危機的な理由によるものでないとしても、いわば心の一時避難場所のように、そのような立場を用いることも時には必要かもしれない。
その意味では、はてなの匿名ダイアリーにも存在意義はあるかもしれないと僕は思っているし、同社がそれを残しているのもそういった側面があってのことだろうと想像している。(といって賛成するわけでもないが)

しかし論理を戦わせる議論という場において、自分の考えを述べようと思うなら、その立場は匿名であってはいけない。
前世紀であったなら、多くの他人と一度に、かつ継続的に意見を交わせる機会は稀で、そのために発信者不定のぼんやりとした「概念」や「文章」を相手にものを考えなければ話が先に進まないこともあったかもしれないが、今は違う。
議論の相手を明確に特定、または設定した上で、その前提のもと(その前提がなければ成り立たない)論を述べた方が効率が良い。