103

結論が決まっている人と議論はできない

ラーメンとカレーのどちらがおいしいか決定しよう、という機会があったとして、初めからラーメンだと決めている人にカレーの良さを伝えることはできない。

一口でいいからこのオススメのカレーを食べてみてよ、と皿を差し出しても、もうラーメンだと決めているのにそんなものを食べたら心が揺れるかもしれないから、その人は出されたラーメンを食べずに捨てる。

議論とはその時の自分の意見とは異なる意見を差し出され、嫌だと思っても一旦それを口に含み、味わい、飲み込むことを繰り返す中で、それ以前には辿りつけなかった新たな答えに共に辿りつくための行為であって、相手から差し出されたラーメンやカレーをひたすら捨て続けるような行為ではない。

安保でもTPPでも原発でもマイナンバーでも良いが、先に結論が決まっていてそれを変える気持がまったくない人が、それに反する意見の人とできるのはそのような「捨て合い」「否定のし合い」でしかなくて議論ではない。

議論とは他人と協力して何かを作る行為であって、そのために最低限必要な条件は、「自分は現時点ではこのような意見だが、もしかしたら変わるかもしれない」という、変更可能性を有していることだ。

片方が提示した論点や証拠に対し、その事実を認めないまま新たな論点を提示する人は少なくない。

1: A「君は昨日遅刻したね」
2: B「覚えていません」
3: A「ここに証拠があるのだけど」
4: B「でもあなたも遅刻しましたよね」

たとえば、このような会話。
Aからの3の発言を受けて、Bは本来遅刻の事実を認めなければならないが、それをしないまま4に移ってしまう。

この状況はピンボールやパチンコを想起させる。放たれた弾の目標は、つねにボードの一番下にある穴に落ちることだけであって、その途中でどこにぶつかって、何度フリッパーに跳ね上げられても、意に介することはない。弾はひたすら下へ向かって落ちていくことだけを指向し、それはやがて必ず成し遂げられる。

自らの非を認める気のない相手と議論することは、ピンボールで永遠に弾を落とさないことを目指すようなもので、それは不可能なことだ。