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結論が決まっていると議論はできない

ラーメンとカレーのどちらがおいしいか決定しよう、という機会があったとして、初めからラーメンだと決めている人にカレーの良さを伝えることはできない。

一口でいいからこのオススメのカレーを食べてみてよ、と皿を差し出しても、もうラーメンだと決めているのにそんなものを食べたら心が揺れるかもしれないから、その人は出されたラーメンを食べずに捨てる。

議論とはその時の自分の意見とは異なる意見を差し出され、嫌だと思っても一旦それを口に含み、味わい、飲み込むことを繰り返す中で、それ以前には辿りつけなかった新たな答えに共に辿りつくための行為であって、相手から差し出されたラーメンやカレーをひたすら捨て続けるような行為ではない。

安保でもTPPでも原発でもマイナンバーでも良いが、先に結論が決まっていてそれを変える気持がまったくない人が、それに反する意見の人とできるのはそのような「捨て合い」「否定のし合い」であって議論ではない。

議論とは他人と協力して何かを作る行為であって、そのために最低限必要な条件は、「自分は現時点ではこのような意見だが、もしかしたら変わるかもしれない」という、変更可能性を有していることだ。

相手が提示した論点に対し、こちらからの反証が成立した際に、それが成立したことに合意する前に新たな論点が提示されることはよくある。

1: A「君は昨日遅刻したね」
2: B「してません」
3: A「ここに証拠があるのだけど」
4: B「でもあなたも遅刻しましたよね」

たとえば、このような会話。
Aからの3の発言に対し、Bは2の発言の誤りについて認めなければならないが、それをせず4に移ってしまう。

これはピンボールマシンやパチンコに似ている。放たれた弾の目的はボードの一番下にある穴に落ちることだけであって、その途中でどこにぶつかって、何度上に跳ね上げられても、意に介することはない。弾はひたすら下へ向かって落ちていくことだけを指向し、それはやがて必ず成し遂げられる。

議論の余地のない相手に対して議論を行うことは、ピンボールやパチンコで弾を永遠に穴へ落とさずにいることを目指すことに似ている。それは不可能なことだ。

もちろんそれは、他人がそのような状態である場合のみを想定して言うのではなく、自分がそうあるときを念頭に置いてもいる。

また、確固たる結論がすでに決まっていること自体を悪く言うわけでもない。単にしかし、それでは新たな考え方や情報を自らに取り込むことは難しくもなるだろう、ということ。