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勉強を続ける方法

4月から簿記の勉強を始めて得たものはいろいろあるが、中でも大きいと感じるのは「わかる」ための方法というか、厳密には「なぜかつて学校の勉強がわからなくなり、ついていけなくなったのか」がわかった(気がする)ということだ。

簡単に言うと、それは借金生活のようなもので、一度支払いが滞ってからはその利息を払うのが精一杯で、元本を返済することができないうちにどんどん借金が膨らむという、そういう状況だった。

もう少し詳しい喩え話を作ると、勉強とは階段を1段ずつ上がっていくような行為であって、1段目をのぼり終えると、「1段目をのぼり終えた人でなければわからない新たな問題」が出され、それを解くことが「2段目をのぼる」ということになる。

2段目をのぼり終えると、今度は「2段目をのぼり終えた人でなければわからない新たな問題」が提供され、それを解くことで次の段へ上がることができる。
勉強とはその繰り返しだ。

しかし学校の授業というのは、自分だけではない何人、何十人もの生徒を相手に一人の先生が担当しているから、のぼるスピードがそれぞれバラバラの生徒を相手にするうちに、「まだ2段目をのぼり終えていない生徒に5段目の問題を出す」とかいう状況が生まれてしまう。

まだその問題を解くための準備や、前提が整っていないのだから、その生徒がその問題を解けないのは当然で、その生徒に能力がないというわけではなく、たんに理解するまでの、つまり階段をのぼるスピードが他の生徒に比べて遅いだけなのだが、まだ2段目をのぼっている途中で5段目の問題を出され、それをやれ、ということになると、途中まで考えていた問題について考え続ける機会が奪われ、のぼりかけていた足を止めなければいけなくなる。

すると、次の段に進むことができなくなるから、その後はいくら新しい問題を出されても、一切答えることができなくなり、そのまま学年が終わり、学校を卒業するまで「勉強がわからない子」になってしまう。

実際には、最初につまづいたところ(のぼることが止まってしまった場所)で、のぼることを再開できていれば、それで良かった。でも、ぼくが勉強を「わからなくなった」時には、その余裕はなかった。

(具体的には、高校1年の数学だったと思う。途中まではそこそこ良い調子だったが、ぼくはその先生と相性が良くなかったようで、ぼくはわかろうとすることを、先生はわからせようとすることを、それぞれ放棄したようだった)

簿記の勉強をしながら気をつけていることは、「あれ、わからなくなった。何をやればいいのか、見失っているぞ」と思ったら、わかるところまで戻るということだ。

これなら確実にわかる、というところまで戻り、まず自信を取り戻す。自分にはできる、わかる、少なくともここまでは。と思えるところを何度も見直し、そこから、「わからなくなり始めた最初のあたり」を突き止める。

今通っている簿記の学校では、先生の話をわざわざ録音している人は少ないように見えるけど、自分にはそんなの不安でたまらない。録音した先生の話を聞き返しながら、教科書のその部分を何度も読み返し、「日本語がわかるなら、わかるはずだ」と自分に言い聞かせ、またその教科書は専門の学校が「誰にでも必ずわかるように」何十年もかけてアップデートしてきた教材なのだから、とも言い聞かせながら読み返し、聞き返し続けると、「ああ、こういうこと・・かな」という、薄くとも確実に思える理解にたどり着く。

その後、練習問題をまた繰り返し解くうちに、その薄い理解がいくらかの誤解をともなっていたこと、そしてそうではない、より腑に落ちる新たな本当の理解がやってくる。

学習で必要なのは、だから先天的な才能などではなく、小さな「わかる」を少しずつ確実に積み重ねることであり、その動力はつねに「自信」だと思う。自分ならわかる、できる、と思いながら、誰にだってわかるはずの言葉を使って、そして積み重ねた知識の上であれば生まれるはずの新たな発想という道具を使って、少しずつ階段をのぼっていくこと。それが勉強するということだと思う。

わからなくなったら、それは「まだ自分は2段目にいて、『3段目や4段目をすでにのぼり終えている人のために作られた5段目のための問題』などわかるはずがないのに、それを解こうとしているから」だと考えればいい。もしそのまま、まだのぼっている最中の階段をのぼりきることをしなければ、それ以上、その分野において先に進むことは難しいだろうから。