103

かつて雨のようだった広告とそれに濡れた僕らのために

雨が降るといろいろ面倒になるから降らないでほしい、と思うことは少なくないが、かといって雨が降ったときに空に文句を言ったりはしない。

雨というのは降るものだ、というのがこの世の決まりであって、降ったら困るとは思ってもそれが嫌だから俺もう先に死んでおく、というほどのことではないと誰もがきっと思っている。

テレビを見ていれば番組のいいところでCMが入るが、それを嫌だと思う人はいてもTVにCMがあること自体を駄目だと思う人は少ないだろう。

人々はTVにCMがあるからその番組を無料で見られることを知っているし、自分一人が文句を言ったところでその構造が変わるとも思ってはいない。

しかしこれらはあくまで「他に選択肢がないから受け入れている」のであって、より良い選択肢があれば人は費用対効果を見据えて、新たな選択肢を取り入れた方が得だと思えばそれを取る。

かつては風呂のない家やアパートが多くて銭湯が繁盛していたが、現代では風呂のない家を探す方が難しいくらいだから、その移り変わりのなかで町の銭湯は徐々に消えていった。

かつて銭湯を営んでいた人はそうした時代の進みゆきにともない、その仕事を失ったかもしれない。
また同様に、かつて必要とされた職業は新たな技術によって次々に居場所を失っていったに違いない。

ではそうした人々がかつての仕事に戻れるように、我々はふたたび風呂のない家で日々を過ごすべきだろうか?
あるいは汲み取り式のトイレを回ってくれる業者のために、我々は水洗トイレを諦めなければならないだろうか?

時代の進歩とは、より良い選択肢が生まれ、人々がそれを選べるようになるということだ。

LGBT夫婦別姓といった多様な価値観が議論されるようになったのも、アメリカでアフリカ系アメリカ人が大統領になったのも、時代が進んだから生じてきたことであって、かつてにおいても「偶々そうならなかった」わけではない。それはかつてではあり得なかったことだ。

少し前までは煙草を吸う人が普通だったから、どこに行っても煙を吸い込まなければならなかったが、それもだんだん減ってきた。

コーラを飲みたいけどカロリーの低いものがいいな、という人のために0カロリー・コーラやほとんど味のしない炭酸水が売られるようになり、その種類も増えてきた。

選択肢は増え、選ばれたものが残るのが時代の進歩というものだ。

ここでようやく、広告ブロックの話になる。(そしてすぐ終わる)

広告はかつて、受け入れるしかない雨のようなものだった。
しかし人々は望まない広告を見なくても済む選択肢を手に入れようとしつつある。

そのことによって、かつてあった仕事を失う人もいるかもしれない。
しかし、その人々のために、別の人々はより欲しかった選択肢を手放し、以前のままの生活を続けなければならないだろうか?

ぼくはそう思わない。「かつてのままか、それ以外か」という二択でもなく、少なくともかつてのままではない、しかしなるべく多くの人が幸福になれる方法を考えていければよいと思う。