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陰口は言っていい

自分の名前やアカウント名でネット検索をしていると、自分に関する、しかし直接言われているわけではない意見を見ることができて面白い。

僕は有名人ではないから、あまり多くのそういった意見に出合うわけではないけれど、それでもたとえば、こうしたブログに何か書くと、それへの反応などの形で、そういった状況に遭遇することはある。

対面ではないとしても、ブログのコメント欄やFacebookの投稿へのコメント、あるいはTwitterにおけるmentionなど、相手にほぼ確実に伝わる方法で呼びかける場合には、発信者における責任というものがある程度わかりやすく発生するけれど、そうではない、単にネット上でサラッと言及する程度の、相手へ届くことを主な目的とはしていない発言においては、そういった責任感というものが必ずしも意識されていない場合があって、それが良いとか悪いとかいうことではなく、自分に関するそういう発言を見るのはただ面白い。

そのような意見には、もちろん肯定的なものも、否定的なものもある。

肯定的なものの中には、「直接言ってくれたら嬉しいのに」と思えるものもあるけれど、言う側の立場になってみれば、「べつに本人とコミュニケーションを取りたくて言っているわけではないし」とか、あるいは「邪魔しちゃ悪いから」的な、殊勝な気持ちからそのようにすることもあるかもしれない。

一方で、否定的な意見を、本人に直接ではなくネットで言う場合には、「軽口で言ってるだけだし」とか「議論したいわけじゃないし」とか、あるいは「そもそも本人に届くなんて思ってなかったし」とか、そういう理由がありそうだ。

テレビでスポーツ中継を見ながら、世界のトッププレイヤーがおかしたミスを罵るとき、普通はそれが当人の耳に届くとは思っていない。それと同様に、じつに素朴な気分で、よく知らない他人に対して悪口を言う人も少なくはないだろう。

相手に向かって直接言うわけではない、そのような悪口を、ここでは「陰口」と表現する。
そして僕自身はそうした陰口を、言われるのはとくに構わないと思っている。

テレビでイチローのプレイに悪態をついた人が、実際にイチローを目の前にしても同様に言うとは思えない。
ムカつく上司について、同僚に愚痴っていた人が、当の上司に対して同じように言うとは思えない。

そのような態度の違いは、まったく自然なことだ。

言い換えれば、人は相手によって、言う内容も言い方も変えている。

自分に聞こえない前提で話されている言葉を、自分に言われたものとして受け取るのは、だからちょっとズレている。ましてや、それに腹を立てることは間違っている。

直接言われた失礼な言葉に腹を立てるのは自然なことだが、そうでないなら、そもそもその言葉は、他人同士のコミュニケーションに必要だった言葉なのだ。

「当人だから」などという個人的な思いをもとに、横から口を出したところで、利害の不一致に陥る場合の方が多いだろう。

その点、はてなブックマークはなかなか微妙な位置にある。そこでコメントをしている人の中には、当人が読んでいることを半ば前提にしている人もいるかもしれない。

しかし、それでもやはり、その言葉は他人同士のコミュニケーションのための言葉であると考えるべきだろう。
もし明白に当人に向けられた言葉なら、コメント欄なり、idコールなり、Twitterなりを通して呼びかけているだろうし、そうでないなら、最終的には当人からの反応は「なくてもいい」という前提なのだ。

加えて言うなら、言葉はつねに、発した人間の体に貼り付いているし、その後も貼り付き続ける。
言葉は投げつけた相手にではなく、発せられた瞬間から発信者自身の付属物となり、周りがその人を評価する材料にもなっていく。この文章が、僕の新たな属性になることと同様に。

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