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最終回は来ない

30歳を過ぎたらあれをやって、50になったらこれをやって、といった長期的なライフプランを作ることに意味はあるだろうが、その意味の有無とは別に、人の一生が本人の希望どおりに終わることはまず無いだろう。

あと10個のやりたいことが残っていて、それを全部終えて「あーもう死んでもいいや」と思って死ねる人がいるとは思えない。仮にいたとしても、そんな人はほんの一部だったり、幸せな思い込みに過ぎなかったり、ということではないかと思う。

多くのケースでは、やり残したことばかりの中で人は死ぬだろう。もちろん僕も。

テレビドラマや漫画のシリーズ物に触れていると、大抵の作品は紆余曲折の末に最終回を迎え、そこではそれまでに生じた困難な問題がすべて解決する。

桃太郎や白雪姫のような、あらすじを1行で書き切れそうなシンプルな物語ならば尚わかりやすく、話が始まればそれは綺麗に完結するものだと、僕らは刷り込まれながら生きている。

もちろん一方で、ニュースや新聞から得られる情報、あるいは身の回りで起きた様々な現象を目にして、現実の世界ではそのような大団円を迎えられない人、いわば「志半ばにして」人生を終えてしまう人が少なくないことを僕らは知ってもいるが、それでも自分自身がこれからどう生きていくのか、そのイメージにおいては、まだ見えないずっと先、その向こうに最終回が用意されていて、それに向けて理想の人生を仕上げていこう、などと思ってしまうのではないかと思う。

そしてそれは、間違いだ。僕らは誰かが死んだのを見たときに、事後的にその人の最期を最終回に置き換えて、その人の生きたすべての時間を「一生」と呼ぶけれど、当人からすればそれは思い描いていた「一生」ではなかったはずだ。

いつでも人は、突然、望まずに、死を迎えるだろう。自分では全12話のつもりの人生が、第3話とか7話とかで急に終わる。それも60分ドラマの21分頃に、急に。

「これは全24話のうちの18話目でやろう、そして残りの6話で静かに終わっていこう」などと思っていても、物語が24話まで続く保証はどこにもない。

たしかに、少なからぬ人々の生死のデータが溜まるにつれて、目安にできる「傾向」も精緻化されていくに違いないが、不確定要素の多い人間の一生が天気予報のように当たるまでにはまだ多くの時間がかかるだろう。

最終回は来ない。「お話」は途中でプツンと途切れ、後に残った人が、その中途半端な素材をもとに、第1話から最終回まで綺麗にそろった、その人の「人生」という物語を創作するだけだ。