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週報にまつわる二、三の事柄

先月ふと思い立って、作業チームのメンバーに「週報」を提出するようお願いして、それから早くも4週間が過ぎた。

週報とは読んで字のごとく、週に一度、作業内容のレポートを出してもらうというものだ。

4回やってみて得た感想は、

  • 思ったより大変
  • 思ったより効果がある
  • これをやって終わりというものではなく、これを用いた新たな作業や成果につなげる必要がある

というもので、共通するのはどれも「事前には想定していなかった」ということだ。

きっかけは非同期ミーティング

週報の始まりについては、Twitterでも以下のようなツイートをした。


つまり、元々は、メンバー間での定期的な作業報告の機会として、リモート・ミーティング的に、チャットの特定のチャンネルに一週間分のレポートをアップしよう、そしてその際には時間帯だけ大まかに決めて、あとは各自の都合のいい時にアップすればヨシとしよう、みたいなことを考えていた。

で、それっていわゆる週報だな、と思ってそのように名前を付け直した、ということ。

3つの質問に絞る

最初から念頭に置いていたのは、メンバー各自の負担を最小限に抑えて、その上で最大限の情報を共有する、ということだった。

「負担を最小限にする」ために考えたのはレポートの書式で、「とりあえず何でもいいので好きに書いてください」的な自由文形式ではなく、僕が作った以下の3つの質問に答えてもらう、ということにした。

Q1. 先週から今日までにどのような作業を進めたか?
Q2. 1の回答、または今後行う作業に関して、疑問や気にかかっていることがあるか?
Q3. 今日から翌週にかけて、どのような作業を行う予定か?

質問事項は、そこそこ具体的だけどそこそこ大ざっぱ、というあたりを狙っている。
これなら、詳しく書ける人はどこまでも詳しく書けるし、忙しい人でもサラッと返せるのではないか、と。

この3問は時系列にもなっていて、「現在」抱えている懸案をブレインストーム的に吐き出すQ2を起点に、その「1週間前」から現在までを対象としたQ1と、現在から「1週間後」までを対象としたQ3に関して、それぞれ報告しやすくなるように考えた。

現在、これに回答するメンバーは僕を入れて4〜5名だけど、まあまあ機能していると思う。

メンバー間の公平さ

この方式の良いところは、結果的にではあるが、メンバー各位に対してフェアな構造になっている、ということだと思う。

というのも、この方式だとプロジェクトに深く関わっているメンバーほど書く内容が増えてしまうのだけど、深く関わっていれば書くまでのハードルも案外低いというか、質問されたらすぐに答えられる状態にあるので、多く書くことの負担は少ない。

逆に、プロジェクトに部分的に関わっている周辺的なメンバーにとっては、普段は別の作業をやっていたりするので、中心的なメンバーに比べてレポートを書くまでのハードルが高くなってしまう。
しかしその場合でも、報告する内容自体は少ないので、他のメンバーに比べて必要以上に負担が大きくなることはない。

ただそれでも、どちらかと言うと、後者の周辺メンバーの方が対応するのは大変そうだなと感じる。
上記のとおり、主要メンバーというのはすでにアイドリング状態というか、エンジンが常にかかったような、体がすでに暖まっている状態にあるのですぐ動けるけど、そうでない場合は火を入れるところからスタートしなければならないので、やはり大変になってしまうということなのだと思う。

とはいえ、結局これも、僕自身は慣れの問題というか、一定期間続けて、習慣になってしまうまでの問題であると思っている。
毎朝同じ時間に起きたり、何らかのスポーツをしたり、部屋を片付けたりするのと同じで、それが身につくに従って負担は軽減されるだろうし、それ以外の解決策はないようにも感じる。

大変さとその対策

より本質的な懸案というか、課題として感じているのは、思っていた以上にこの「レポートを書く」ということ自体が大変だということで、毎回「え、もう1週間経ったの? また週報書くのか……」と思ってしまうぐらい、けっこう労力も時間も奪われる。

僕の場合、今やっているプロジェクトでは中心的に動いているので、「1. やったこと」も「2. 今抱えている問題」も「3. これからやること」も膨大にあって、それらを全部書き出すと、他の中心メンバーに比べても異様に量が多くなる。

そしてそれらを実際に書いてみて思ったのは、どうやら人間にとって、意識的に過去を振り返るという行為は不自然というか、難しいというか、向いていない作業なんだな、ということだった。

たとえば道をブラブラ歩いているときや、風呂に入っているときなどに、不意に過去の記憶が蘇ってくるとか、そういう「無意識のうちに思い返される」のであれば何の苦痛も感じないのに、「3月15日〜3月21日までに何があったか思い出しなさい」と、外部からの要請に従って記憶を呼び起こそうとすると、猛烈な負荷がかかってくる。

とはいえ、だからといって「ケ・セラ・セラ、なるようになるし、そんな面倒なことはやめて、目の前のことに集中しようぜ!」などというのは何も考えていないのと同じである。(もしそれで失敗したら、誰が、どんな責任をとり、どうやって次につなげていけると言うのだろう?)

次のステージに行きたいなら、そのための対策をとり、体がそれについていかないなら、そのための体を作らなければいけない。

具体的には、ぼく自身はその負荷対策として、一気に過去を思い出すのではなく、毎日メモ程度でも作業記録を取っておいて、週報を書くときには、そのログを整理・編集するだけ、という風にしている。
このようにすると、今度はその整理をしているうちにだんだん並行して、それら過去のことが「自然に」思い返されてもきて、まとめる作業がさらに進めやすくなる。

また、週報の日が来るたびに、「え、もう1週間経ったの?」と、ゲンナリするような気分を味わうのも、必ずしも悪いことではない。

その感覚は、もしそれをしていなかったら自分で意識しないうちにビュンビュン時間が過ぎていた、ということを意味している。
つまり、そういう伸び縮みしてしまう自分の中の「体内時間」と、実際に世界を流れている&他人と共有している「体外(客観)時間」とをすり合わせる契機として、週報が機能しているということでもある。

今後これを続けているうちに、体の方から「そろそろ週報の日だな」と気づくようになるだろう。そのとき、僕の体には客観的な一週間分の時間感覚・リズムが刻まれていて、今よりずっとラクに、自然に、適切なスケジュールにもとづいた作業をしているはずだ。

週報の意義

週報は現状、毎週木曜の午前9時〜午後5時半までに提出するよう設定している。
そして、同日内であれば、これより早い提出はOKだけど、遅れは基本NGとしている。

提出遅れをNGだと明言するのは、リアルミーティングと違って、非同期で、各自の好きな時間に対応できる分、「時間厳守」という確固たる要素を立てておかないと、かえって作業に取り組む動機が生まれづらいと思うからだ。

また、週1回というスパンについて、世の中には日報という制度もあるようだけど、僕が関わるプロジェクトではその性質上、毎日レポートを書くことになると、その負担の方が作業より大きくなってしまって、効果が薄い(場合によっては逆効果)と思われ、逆に月1回にしてしまうと、基本ぼくは自宅作業で、メンバーの進捗がどうしても見えづらいので、やはり週1回ぐらいがちょうど良さそうだと思っている。

その上で、週報の意義についてあらためて考えてみると、普段のやり取りはSlackチャットで毎日のように行われているので、最低限の情報は毎日更新されているし、べつにそれでいいのでは、とも思えなくはないのだけど、実はそうした日々交わされる情報というのは、全体から見ればけっこう偏っているというか、ごく一部の限られた傾向に沿った情報を毎日辿っているだけとも言えるので、それで充分とはまったく言えない。

たとえるなら、机の上の一部だけはいつも使っているから綺麗だけど、それ以外の普段触っていないところにはホコリが積もっている、というのが普段の状況。

週報というのは、そのたとえで言うと、普段使っていない部分も含めて週に1回、机の上全体を掃除するようなものだ。
これをやると、自分や他のメンバーがとくに大事だと思っていなかったことが実は意外に重要だったり、すっかり忘れていたタスクが出てきたり、通常のやり取りだけをやっていたら普通にハマったであろう罠を事前に見つけやすくなる、と感じる。

効果測定の方法と結果

ただ、そのような意義であるとすると、それは問題を「事前に」解消してしまうから、効果を実感することは難しいかもしれない。

病気になって、薬を飲んで治ったら、薬の効果を実感できるけど、これはそもそも病気にならないように予防に努めるようなものだから、「こんなことやって、何の意味があるの?」となりやすい。地味で、日の目を見ない作業とも言える。

とはいえ、効果測定の方法がないということではない。ぼくはすべてのプロセスを細かく記録に残しているので、そうした情報が充分に溜まれば、以前の同種の作業との違いや、成果を検証することができる。

でも、僕の場合で言うと、そのような比較・検証をするために充分な情報が集まるのは、一つのプロダクトが出来たときなので、プロダクトが出来上がるまでは、効果を客観的に知ることができない。
たとえるならば、今は長大な試験問題を解いているところで、そのテストの結果は後でまとめて出てくるから、それまでは試験が上手くいったのか、失敗だったのかわからない。

逆に言えば、いつまでもただ信じ続けるだけ、ということではない。判断の根拠となる情報は必ず後から出てくる。
それは「やめた方がいい」と言える根拠になってしまうかもしれないけれど、少なくとも客観的な情報をもとに判断できるときは来る。だから、それまではとりあえず続けてみたいと考えている。