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方法の作り方

「これやっといて、いつまでに」と言われて、わかりました、と引き受けて作業をスタートした時に、「いや、そうじゃなくて、このやり方でやって」と、目的だけでなく方法まで指定されると、上手くワークしないことがある。

目的を定め、その遂行を他人に指示(依頼)することは普通だが、その際に方法まで指示することが必要であるかは微妙なところだ。

相手がまったくの新人であったり、その作業に精通していないスタッフである場合にはそれが有効になることもあるだろうが、そうでないケースにおいて、たとえば「今までこのやり方で上手くいってるから」といった理由で方法を押し付けても、状況によっては期待する効果が得られないばかりか、かえって逆効果になることもあるように思う。

方法とは基本的に、目的から逆算するように導かれるものではないかと思う。

今ある自分(作業者)が、その目的を達成するために、どの道筋を通れば良いかと考えて導き出されるのが方法であって、算数でたとえるなら

3 + X = 5

という時の「X」が「方法」にあたる。
それは他の要素が決まっても最後まで不確定なものであって、逆に言うと、この場合なら「作業者(3)」と「目的(5)」が先に固まれば、自ずと決まってくるものでもある。

作業者や環境(状況・条件)が異なるのに、同じ方法をとるというのはやや思考停止に近い。
変数X以外の要素が異なれば(たとえば最初の「3」が「1」になれば)、変数の中身も変わってしまうことを上記の式は説明している。

「目的」と「方法」を先に定めて、「作業者」は誰でもいいという考え方は、失敗を自ら引き寄せてしまうことがあると思う。

プログラミングの入門書などを読んでいると、Aという本とBという本とCというブログ記事を組み合わせて初めてその概念の意味がわかった、などということが少なくない。

それはおそらく、その入門書が僕一人のために書かれた本ではなく、不特定多数の読者を想定して、その誰にでもある程度ずつ当てはまるように作られているからそうなるのだと思われ、僕はだから、結局そうした一つ一つの異なる本を素材として手元に重ね、あたかも料理人が複数の食材を組み合わせて一つの料理を作るように、僕だけのための入門書(教科書)を作らなければならず、それを作ることができれば、理解したい概念をより理解しやすくなると考えている。

コンビニのおでんや肉まんの味付けを、ある人は濃いと言ったりある人は薄いと言ったりするだろうけど、味付けを決める人は「誰にでもそこそこ好かれる味」を目指しているはずで、「これものすごいウマい、毎日食う!」と思える人はたまたま真芯に当たったラッキーな人なのだと思う。

画家は絵の具メーカーが調合した絵の具を予算内で買えるだけ購入し、それを手元のパレットであらためて調色しながら絵を描く。

初めから「木の葉の陰にはこの色」「水しぶきの大きめの飛沫はこの色」などという目的のために作られた色が売っているわけではなく、というか仮に売られていたとしても赤や白の絵の具から見れば購入の優先順はだいぶ低くなるだろう。

画家の使用する絵筆には多くの種類があり、大きさも硬さも柄の長さも、よりどりみどりと言えるはずだが、それでも画家にとっては買った筆がすぐに「馴染む」ことはあまり無いと想像される。
逆に、知らない人から見ればボロボロでもうこれ捨てたほうがいいんじゃないか、と思えるような細筆や、バキバキに毛先が固まって見えるごつい筆が、「こういう感じで描きたいときにはこれが一番いいんだよね」と、画家に思い通りの仕事をさせることはいくらでもあると想像される。

道具というものは作業者が「自分」という世界に二人と居ない存在である以上、本来は世界に二つと無いものでなければワークしない。

売られているもの、すでにあるものはそうした個人と個人の間に置かれた汎用品であり、その中から自分が望むものに最も近いもの、あるいは複数のそれを素材として、そこに手を加えて新たに作る必要があるだろう。

自分に最もフィットした道具を手にしたとき、人は目的へ向かう最も短く最も楽しい道に出会うことができると考える。