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政府を批判するならば

ぼくがTwitterFacebookでつながっている知り合いには現政権に批判的な人が多く、それを悪いともおかしいとも思わないけれど、ちょっと感覚が違うかなと思うことも時にはある。

根本的なズレというか非効率な感じがするのは、どうもそうした論調に共通する姿勢として、今の首相や、それに類する人たちを、ほとんど人格否定というか、存在そのものを否定しているような雰囲気があることで、やることなすこと、とにかく全部ダメ、と言っているだけのように見えることがある。

上で「それに類する」と書いた中にはNHKなどもあって、NHKの報道は全部ダメ、という「前提」がまずあって、その上にすべての検討要素が置かれているように見えることがある。

実際には、毎回そうした批判的なことを言うたびに厳密な吟味がなされているのかもしれないが、そうでないことがあるとすれば、それは人種とか肌の色とか性別とかいった外側(当人が考えていることとは別)の要素をもって、その人を規定しているのと同じというか、言ってみれば思考停止に近い状況なのでは、とも感じる。

僕自身は必ずしも、現在の首相や与党を積極的に支持するものではないけれど、何がおかしくて何がそうではないか、ということはやっぱり属人的にではなく、個別に、それぞれが置かれた条件に照らしあわせながら判断すべきだと思う。
ついでに言うと、NHKの夜9時のニュースはほとんど毎日見ているけど、なんだかワイドショー的で、なぜこれがトップニュースなの? と思うことも無くはないものの、基本的には、というかとくに大越キャスターの姿勢や意見などには頷けることの方が多い。

政府のやっていることを批判することと、政府そのものを批判することとはちょっと違って、前者を個別にやるのは妥当だと思うけど、現在僕の目には、どうも後者というか、まず「現政府はダメである」という結論があって、その結論が揺るぎないものであるという前提の上で、「あの発言はおかしい、この行動はおかしい」という批判が生じているように見えてならない。

「あいつはダメなやつだから、あいつのやることは全部ダメだ」という見方と、「あいつがいいやつかダメなやつかは知らないが、あいつがさっきやったあれはダメだ(またはイイ)」という見方とでは、後者の方が妥当であり、それは誰にだってわかることだろうけど、前者のように見えることの方が多いんだよなあ、ということ。

確かに、誰にでも行動や思考に共通する一定の「傾向」というものはあって、同じ失敗を繰り返す人とか、何をやっても上手くいく(ように見える)人とか、何を言っても自分の考えていることに近い(ように思える)人なんかも厳然としているわけだけど、やっぱりそれは判断要素の一つとしては有効であるとしても、揺るぎない前提として置けるほどのものではないだろう。

もう一つ、そこからつながって思うのは、そうした政府などへの批判のあり方として、単にそういう対象(首相なりニュースキャスターなり)の「気持ちをくじくこと」が目的になってしまっているのではないか、という印象を持つこともある。

正当な批判をした上で、結果的に相手の気持ちがくじけてしまうことは確かにありえて、それを恐れて批判ができなくなることは望まれないけれど、そのように副次的に、あるいは工程上避けがたくそうなってしまうというよりは、目的そのものが相手のやる気を失わせることであったり、嫌な気持ちにさせることになってしまっているんじゃないかな、と思えることがあるというか。

また、具体的な代案とまではいかなくても、NOを突きつける際には、じゃあそうではないどんな感じを求めているのか、ということは、時間をかけてでも提示していく、あるいはその望ましい何かに相手を導いていくような対し方が理想だろうとも思う。
国民一人ひとりは政治の専門家ではないから、ココをこのように修正すべきだ、なんてことを言う必要はないとしても、「はい、ダメー、それもダメー、それもまたダメー」なんて言い続けるだけでも効率が悪いというか、その方法では、短い人生のうちに求める方向へ社会を変えていく、動かしていくということはちょっと難しいのではないだろうか。

三つ目。現政府を批判するという、それ自体は否定しないが、彼らを与党にしたのは彼ら自身ではなく、つまり、ある日いきなり彼らが勝手に「ハイ俺たち今日から与党ねー」とか言って政権に座ったわけではなく、彼らに投票したそれはもう膨大な人たちが彼らを政権に据えたのである。
だから、僕の考えではそういう膨大な人たちに対してアクションをしなければ無駄が多いというか、選挙で選ばれた側をいくら批判したところで、また同じ人たちが、同じような人たちを、同じように選ぶだけでは、と思う。

ようは、戦う相手を間違っているように感じられるということ。狙いを定めるべきはそっちじゃない、という。
なぜ彼らが選ばれて、誰が彼らを選んだのかを考えなければいけない。彼ら政府の人たちを、その人間性やその存在自体を否定したところで、客観的に見れば、思考停止的な差別的な態度にしかならないように感じる。

樹木に茂った木の実が自分の望みと違うからといって、木の実自体をいくら刈ったり捨てたりしても、翌年にはまた同じものが実るだろう。
何がその木の実を実らせているのかを知り、その点に対して方策をとらなければ、無用な攻撃と悲しみがただ循環していくだけではないかと考える。

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