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論理を信じる

何かにホッとするとき、というのはどうやら僕の場合、「こうなるだろう」と思ったとおりに現実が再現したときで、想定通りに事態が運ばなかったり、目の前の人が言っている理屈がまったく理解できなかったりするとけっこう苦しさを感じるようだ。

このようなときに僕が自分に対して頭の中で言うことはいつも似ていて「僕は論理を信じているからな」ということだ。

そして今日あらためて、というか初めてかもしれないが、思ったのは「僕は論理を、宗教を信じるように信じているのだな」ということだった。

宗教と論理はある意味でまったく反対のものであるように僕自身は思っていたけど、こう考えるとまったく矛盾なく結びついている。

チカラAで時間Bのあいだ動くとA*Bであるところの距離Cだけ移動できるのと同じように、論理AをBだけ信じるとCの恵みを得ることができる。
AとBは別ものだが結びつくことで新たなCを生む。

水平に走るAに角度Bを付けると高さCが生まれる。動力も角度も別のものだがそれらが組み合わさるとどちらだけでも行けなかった場所に行ける。

論理は道具で、誰にでも開かれ、提供されている。それは再現性を持ち、誰が遂行しても同じ結果に至る。
信じるということは感情で、それは力であり、エネルギーであり、そこに理屈はない。理屈が不要ということではなくて、理屈の話は他ですればいい。信じるということはただそれだけの何かで、それだけであることに価値がある。信じるということは力であり、感情であり、それだけでいい何かだ。

一般に言われる宗教とはたぶん、その信じるということに様式性を持たせて、ある種洗練させたものだと言っていいのではないか。その意味で宗教とは態度であり、あり方の表明みたいなことだとも言えるだろう。

僕はだから、話を戻すと、論理を信じている、という態度を明確に表明することで、「宗教を信じるように論理を信じる」ことをしているのだと言えるかもしれない。

もちろん世の中にはわからないことの方がわかることよりずっと多く、こうなるだろう、と想定したとおりには行かないことばかりである。
しかし想定したとおりに物事が運ばない、ということは失敗でもなければ損失でもなくただそこにある事実だ。僕が生まれてここにいるのもまた成功でも失敗でもない何かであって、それに近い。

再現性の何が重要かといって、限られた人生を楽しさに満ちて生きるために、一度味わった「あの楽しさ」を様々な形で何度でも、あるいはそれ以上の強さで味わいたいと思う、その欲望を実現するために有用だと思われる点である。

ただ指をくわえて空からそれが落ちてくるのを待っているのでもなければ、闇雲にあちこちへぶつかっていくだけなのでもなく、なんらかの根拠やヒントを道標に「あの楽しさ」あるいは「まだ見ぬ喜び」みたいなものを探し、そして得るためにそれが必要なのであって、だから論理という道具が通用しない状況に遭遇するとたまらなく不安を感じるのではないか。とそう思った。