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かつては絵を描いていた(4)

初めてフジロックに行ったのは2000年の夏で、フジロックはそれまでの3年にわたって富士(というか山梨)、東京、苗場と場所を毎年移し、その年は4回めにしてようやく苗場に定着しようかというときでもあった。

僕は大学を卒業したばかりで、ペンキ塗りのバイトを始めたところでもあったけど、まださほどがっつり現場に入っているわけでもなかったのと、そのちょっと前に読んだロッキンオン・ジャパンで紹介されていたShing02フジロックに出る、というのを見て「これは行かなきゃ」と思ったのだった。

ロッキンオン・ジャパンのその記事はインタビューでも特集でもなく、ただ『緑黄色人種』というすごいアルバムがあるぞ、みたいな2ページだけの印象批評のようなものだったけど、ぼくは何だか衝撃を受けてしまい、それを見て買ったCDがまた特異でやはりすごいと感じ、これを間近で見ることができるならそのためだけに苗場でもどこでも行くわ、みたいになって見知らぬ人たちとの相部屋前提の泊まり込みのバスツアーに申し込んだのだった。

後から知ったところでは、Shing02フジロックの半月ほど後に新宿リキッドルームで開催されたオールナイトイベントにも出演したので、べつに苗場まで行かなくても彼を見ることはできたのだったが、後から知ったので仕方なかったし、その新宿の方にも行った。

その年のフジロックにとりたてて感動したとか開放感を味わったとかいうことはなかったが、それでもそこにしかない空気や土や植物の露の匂いみたいなものはあって、その匂いというのはそこに行かなければ思い出せないものとして挙げられる。

翌年(2001年)と1年飛ばして2003年にもフジロックに行ったけど、それらのときはどちらもテントをかついで前夜祭も含め3〜4泊したのだった。初年のホテルの相部屋ツアーという参加スタイルはけっして悪いものではなかったけれど、やはり門限や交通機関を気にしながら早めに会場を後にしなければならないのが残念だったから、会場のすぐ脇にテントを張ってそこから「通える」ということが、そこではかけがえのないメリットだと判断したのだった。

テント生活も貴重な経験だったとは言えるが、またやりたいかと聞かれたら「それはない」と答えるだろう。最後に行った年の最後の夜には体中がくたびれきって、シャワーもろくに浴びられず、眠ろうにも周りのテントから聞こえる叫声はやまず「早く明日になって、すべて終わってほしい」とそもそも呼ばれて行ったわけでもないのにまるで何かの被害に巻き込まれた者のように感じてすらいた。

フジロックで唯一良い記憶として残っているのは、2001年のエミネムのステージが始まる直前、その一つ前のTOOLを近くで見たいと思って前に進むうちにグリーンステージ真正面の2列目まで来てしまい、TOOLの演奏が終わるとともに奇妙な客の入れ替えが生じ、誰が前に行きたいのか、後ろに行きたいのかもよくわからないような混沌に飲まれるうちに最前列になってしまい、そのままフェンスにしがみついていたのだけど、数時間前から水分を補給していなかったからノドが渇ききって、これはちょっとまずいな・・と朦朧としていたところ、目の前の通路にスタッフが一人、水が半分ほど入ったペットボトルを持って歩いていたので「その水くれませんか」と声をかけたらそのままフラッと奥に戻って一杯になるまで水を足したペットボトルを持ってきて手渡してくれたことだった。
ぼくは御礼を言って一気にそれを飲み、そのペットボトルを持ち帰って何年も持っていた。

2000年、2001年と続けて行ったのに、なぜ2002年は飛ばして2003年にまた行ったのか、その頃の記憶がまったくない。
2001年の夏はディズニーシーの開園直前だったからそれなりに忙しかったはずだがエミネムを見ていたし、その翌年は逆にそれほど忙しくはなかったはずなのに行っていない。

2002年の2月の終わりに、ぼくは近所のイタリアン・レストランでアルバイトを始めたはずだ。
その頃はまだペンキ塗りとのかけもちだったが、徐々にそれも難しくなり、やがてイタリアンだけに絞られることになった。

そのイタリアン・レストランでアルバイトをしようと思った一番の理由は家が近かったことだが、表に貼られたバイト募集の紙に「28才まで」と書かれていたこともきっかけにはなった。
ぼくはもうすぐ27才になろうとしていて、「28才まで」という制限の外側に近づいていた。

電話をかけた翌週に面接が設定され、さらにその翌週から初歩的な仕事が始まった。
お客さんの注文を紙の伝票に略記で書きつけながら復唱し、レジで会計をしながら新たに入ってきた客を誘導し、キッチンでは什器の拭き掃除や素材の下ごしらえなどをした。やることすべてが初めてのことで、後から振り返ればこの仕事で得たものは有用だった。

リアルな対人関係でどのような時にどのような言葉を使うべきなのか、人はどんな表情や声色で接すれば適切に反応してくれるのか、そういう根源的なコミュニケーションを身につけたければ厳しい飲食店ほど効果的な場所はないかもしれない。
教えてくれる人自体が料理人のコミュニティでその先輩から殴られ蹴られしながら身につけたものだから、こちらが教わるときにもある種鬼気迫った、筋金入りのところがある。

何年も後になって、なりゆきで編集者のようなことをするようになり、見ず知らずの人たちと日常的に新たなやり取りをせざるを得なくなったが、そこから追い出されもせず何とか続けていられるのはその店で他人と接する方法を知ったからだとも思う。
見ず知らずの人と「普通に」接するということは、何も考えずにできる人もいるかもしれないが、そうでない人でもくり返し練習すればできるようになる。

店では掃除やフロア(いわゆるウェイター)からトレーニングが始まって、徐々に厨房の作業をやるようになった。
アルバイトに任される「調理補助」とは「火を使わない料理」ということで、サラダの盛り付けや料理に使う食材のカット、そしてピザ生地を麺棒でのばしてソースを塗ってトッピングをするまでのピザづくりもよくやった。

よく日本そばを大きな麺棒でのばすような映像をテレビで見るけれど、ピザをのばすときにもあれに近いことをやる。僕の働いたところはミラノ風という作り方だったから麺棒を使ったけれど、これがナポリ風だと指でグイグイ押して広げていく方式になるらしい。遠心力でのばす方法(回転させながら上に飛ばしてまたキャッチするとか)もテレビではよくやっているが、それがどこ風なのかは知らない。
慣れないうちはいくら麺棒を転がしても生地がのびなくてつらかった。夏は生地が柔らかいのでまだやりやすいが、冬はいつまでも固くてそれが「のびなさ」を手伝った。

2003年のフジロックに行くために、連休をほしいと店長に申し出たときのことをほんの少しだが覚えている。
お盆や夏休みは他の学生バイトが実家に帰ったりするから簡単に休めるわけではなかったけれど(まして僕は学生ではないから代役として貴重だった)、ある程度余裕をもって前から頼んでおいたのだ。

2000年の目当てはShing02Super Furry Animalsで、2001年の目当てはエミネムNew Orderだったが、2003年の目当てはフジロック自体であって目的のアーティストはいなかった。
日常がストレスに満ちていたから、それを打ち破るための新たな視点や体験を得るために、それを得られる「場所」としてのフジロックを求めたのだと思う。しかし実際には、新しい驚きのようなものはもうそこにはなくて、アーティストがこう振る舞ったらぼくらはこうやって返しますから、みたいな予定調和を振り付けのようにただなぞっては、感動ではない安心を得ているだけという気になった。それはその年のフジロックがそうだったというよりも、受像機であるところのぼくが様々な魅力の源泉を持っているはずのその場所から、そうした信号しか受信できなかったということだろう。

ではその年のフジロックから得るものは何もなかったのか、といえばそうではなく、2日目のオレンジコート・ステージにおけるDate Course Pentagon Royal Gardenの本番前のサウンドチェックをたまたま通りかかって見たことが、その後の人生を変えた。