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かつては絵を描いていた(3)

加藤さんのアトリエでもあるぼくの新居への引越しは、ペンキ塗りの親方と、その盟友でありチームメンバーでもあるTさんがみっちり手伝ってくれた。

二人はいつも仕事に使う自分の車を出してくれて、ぼくが前日までにダンボールに詰めこんでいた荷物を流れ作業で荷台へ積み込み、着いた先でも荷降ろしや家具の移動を手伝ってくれた。

親方もTさんも加藤さんと同期の元ムサビ生だったから、ようは僕を含めてみなムサビ生であり、彼らはぼくの先輩だった。
親方は加藤さんと同い年で、Tさんはそれよりいくつか上だった。当時はみんなすごく上の世代だと思っていたけど、いま計算したら親方は30か31だった。すごく若い。

親方はかつて東名阪のツアーをしたというぐらい人気を集めたバンドのギター・ボーカルだったそうで(本人からではなく加藤さんから聞いた話なのでそんなには盛っていないと思う)、たしかに顔立ちが整っているし、身につけているものや立ち振舞いからもある種のカリスマ性が醸され、気さくな人柄と饒舌な話しぶりで周りをなごませた。
通常、「ペンキ屋の親方」と言われてこのような人を想像する人はまずいないだろう。「彼はサーファーだよ」と言われた方がよっぽど腑に落ちるような人だった。

親方の家はぼくや加藤さんの家とあまり離れていなかったから、毎朝6時頃に彼はぼくの家の前に車を停めて、ぼくは(あるいは加藤さんも)それに乗り、途中のコンビニで買った朝食をむしゃむしゃと食べながら舞浜の現場に向かった。

車の中にはシンナーの匂いと強めにかかった冷房と、椎名林檎の発売されたばかりのアルバム『勝訴ストリップ』が流れていた。何度もリピートするから必然的に1曲目の「虚言症」を一番聴くことになったけど、好きな曲だったからそれで良かった。

まだ薄暗い武蔵野を抜け出して、湾岸の海をまたぐ首都高の大きな橋を渡る頃には強い朝陽が車に差し込んで、車中は一気に暑くなり、いつも助手席に座っていたぼくはその逃れられない眩しさと暑さをすごく煩わしく感じていたけど、今思い返すとすごくいい思い出になっている。あんな時間をもう味わえないだろう。

親方はバンドをやっていたぐらいだから洋楽もよく聴いて、Weezerの『Maladroit(マルドロワ)』が出た頃にはそれもよく車で聴いた。

Weezerの1st(通称ブルーアルバム)が出た頃にぼくは予備校の1浪で、初めはビデオクリップで見た「Buddy Holly」にしびれたけれど、アルバムを買ったら1曲目と「Say It Ain't So」にやられて、やがて3曲目の「The World Has Turned and Left Me Here」を一番好きになった。
2枚目のアルバムは最初はよくわからなかったけど、そのうち「The Good Life」を中心に全体的に好きになった(あるある)。
その後しばらくの間、彼らは一時期の高橋源一郎のように活動を休止して、数年の時をおいてサマーソニックに来たときは嬉しくて富士急ハイランドまで聴きにいった。そこで演奏された「You Gave Your Love To Me Softly」にまたやられてWeezer熱が再燃した。その後に復活作のグリーンアルバム(通称)が出て、『Maladroit』はその次に発売されたアルバムだった。

ペンキの現場はイクスピアリの完成と入れ替わるように、まだ建設の只中にあったディズニーシーがメインになって、その合間に時々ディズニーランドのリハブ(修繕)に入った。シーの方は世界の果ての開拓地のような大変な現場だったし、ランドは大抵夜中から明け方の仕事で、昼の営業時間内に作業をすることもあったがとくに楽しいと感じることはなかった。
でも今から思えば、昼のディズニーランドでペンキ塗りなんて、どう考えてもすごく楽しそうだ。実際、そのときにあったことを思い返すと、ひとつひとつどれも強烈に面白くて、いつもメンバーと笑い合っていた気さえしてくる。耳元にはつねにあの愉快な音楽が流れこんできて、お客さんが入れないような場所を歩いて、通常見ることができないような景色をいくつも見たはずだ。でもやっぱり、そのときにはそうしたことに何の価値も感じていなかったし、作業や人間関係上のつらいこともそれなりにあったし、今からそのときに戻れると言われても、戻ろうとするかはわからない。

あるとき親方が引越して、通勤が車ではなく電車になった。少し過酷な感じになったが、その変化には反発も疑問も感じなかった。むしろ現場が終わってから自分のペースで帰れることに開放感を味わったかもしれない。親方の車で行き来することは体にはラクだったけど、精神的には息をつく場所がなかったとも言える。

帰り道、現場から舞浜駅に向かう途中で、開業したばかりのイクスピアリに寄って駄菓子を買い食いするのが数少ない息抜きになった。いろいろな店をただ見て回った。安く買えるものは時々買った。白水社から出ている、『ライ麦畑でつかまえて』の日英併記の文庫本を買った。

ディズニーシーの現場では9月のグランドオープンが近づくにつれて徐々に職人の数が減っていった。それ自体がテーマパークのように広大だった詰め所は大半が解体され、以前にはよりどりみどりだった仕出し弁当の種類もほとんどなくなった。(そもそも弁当の業者自体が入らなくなった)

シーの現場が終わると、ペンキの仕事内容もけっこう変わっていった。ぼくに振られる作業も少なくなって、別のアルバイトをかけもちしないと暮らせない状況になり、家の近所の小さな個人経営のイタリアンに調理補助のバイトで入ることになった。

かけもちをしないと生活できないから、という理由でかけもちを始めたけど、今度は「かけもちをしているから」という理由でそれぞれのバイトをしづらくなった。とくにペンキ塗りに関しては、元々「フラフラしているから」(時間の融通がきく)という理由で使ってもらっていたわけだから、それも当然のことではあった。

ペンキ塗りをやっているときにはいろいろな現場に連れていってもらって、埼玉の入間(いるま)にあるFRP(繊維強化プラスチック)の工房で塗装をすることも多かった。その工房にもムサビの卒業生が多くて、そういう人たちが集まる広い工場の一画で、数人のメンバーで深夜まで残って、静寂にスプレーを吹く音だけが響く中、ただ刷毛を洗ったりしていると、なんだか「終わらない文化祭の準備」を地で行くような、時が止まったような感覚を勝手に味わっていたようにも思う。

それはモラトリアムの延長戦。態度保留のまま、まだ手遅れというには若く、いつか何かができるはずだと思いながら、逆転の機会を狙い、居心地の良い詰め所で、面白い人たちとタバコを吸って、缶コーヒーを飲んで、絶えまなく笑った。ぼくは27才になっていた。