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かつては絵を描いていた

小学生だか中学生の頃に母と見た、『恋する女たち』という映画の主演女優は斉藤由貴で、彼女が恋する相手の男子高校生役は柳葉敏郎だった。
こんな話をすると、今の柳葉敏郎しか知らない人にとってぼくという人は、ぼくがかつて上原謙志村喬の若い頃について語る人を見ていたようにぼくを見るだろうか。だったら面白い。昔の話をする人になってしまった。

その映画の中で若き(しかし見た目は今とほぼ変わらない)小林聡美斉藤由貴の同級生役で、小林聡美は変わった女友達の役で、美術部員の役で、いつも放課後にはひとけのない美術室で一人石膏デッサンをしているのだった。

その光景がなんだか印象に残っていて、ほとんどそれだけのせいでぼくはそれなりに偏差値の高かった市内の高校で、その学年に一人だけの美術部員になってしまった。そしてほとんど映画で見たままの、誰もいない放課後の美術室で石膏デッサンをするようになっていた。

望みの地位を手に入れたまではよかったが、それが素敵なのは映画の中だったからで、美術部員としての研鑽しか積んでいないぼくがそのまま高校2年の秋を迎えてしまうと、「さあ、進路はどうしようか」と思ったときに選べる道はすでに出遅れてしまった普通大学の受験競争に参加することではなく、多少は周りより能力がありそうな美術系の進学を希望することぐらいで、だから高2の代ゼミの美大コースの冬期講習からぼくの受験勉強(というか受験を想定したお絵描き)は始まった。

高1の春に入部を希望して弱くノックした美術準備室の先生は小川先生といって、今から思えばなんだかまさに忌野清志郎が歌った「ぼくの好きな先生」みたいな人ではあった。ピンク色の木製の引き戸を開けて出てきた先生は「なんだ、入部希望?・・奇特だなあ!」と大きな声で言って、そのままなんということもない話をしばらくしただろう。

先生はぼくが代ゼミの冬期講習に通う前、というかその年の夏休みの間に亡くなってしまって、だからぼくは先生の代理として急遽現れた二人の非常勤の女性の先生とぼくの進路について話し合った。
2人の先生のうち一人は大学を出たばかりのような若い、日本画を専攻していた先生で、もう一人はおそらくオールラウンドの、若い先生よりは年配の先生だった。ぼくは年配の先生の方から、進路はどうするの? こんな予備校があるよ、と、代ゼミやそれより近所の地元の美術予備校を教えてもらって、結局高校3年になってから近所の方の予備校に通うことになった。それはふなばし美術学院というところで、たぶん今もある。

年配の方の先生は、その後もいろいろと気にかけてくれて、あるときに油彩画のレクチャービデオみたいのを持ってきて(もちろんVHSだ)、これを貸してあげるから、見てごらんと渡してくれた。「参考になるかわからないけど。私もちゃんと見たことがないんだけど、あったから」と申し訳ないような、とりあえず言ってみたみたいに笑いながらそう言った。家に帰って夕方の居間で一人で再生してみると、3本ぐらいのタームに分かれた、人物画や静物画の受験用にマニュアル化された、こんな順番で色を乗せていけば6時間でこのぐらいの絵はできますよ、みたいな教則を披露していて、おそらくは芸大生などがアルバイトで描いているのだろうけど、だからというかなかなか面白く、ほとんどそれを見たままのイメージで少し後に開催されたふなばし美術学院の統一コンクール(浪人生も高校生もみな一緒に受けるコンクール)で再現したら1位になってしまった。
それはまったくのまぐれというか、自分としては中途半端な失敗した出来で、でもなにか初々しいような勢いがあるような、そういう感じではあったのかもしれないとも思う。

そのコンクールの1〜2ヶ月後に、今度は学科試験も合わせたコンクールがあって、学科というのはたしか国語と英語だったけれど、これも高校生と浪人生が一緒に受けた結果で1位になった。いずれも参加者は数十人〜100人にいかないぐらいだったか。
後者のコンクールは学科との合計だったから、ぼくは腐ってもタイ的な意味でまだ高校生だったし、それなりに学科で得点をとっていたようで、それで1位になったのだった。たしか絵だけだと7位ぐらいだった気がする。
そしてまた、そのときの絵にしてもじつのところ、その少し前に見た他の予備校の参考作品(その予備校を宣伝するパンフレットとかに載っているキャッチーな絵)にインスパイアされてそれを真似するように描いてみたものだった。どうやらイメージを得ると強いところがあるらしい。

そのように現役生(高校3年)の頃はけっこう華々しい活躍をしていて、その予備校は年に1〜数人の芸大生を輩出していたから、ぼくは当然のように芸大合格候補者の筆頭みたいになってしまった。
その何年も後、当時の予備校の同級生と話していたときに、カド(私)はスターだったよ、と言われたことがあって「おお」と思ったけど、それを言った人はぼくが2浪している間に当の芸大にトップで合格してしまったのだからわからないものだ、というかなんだそれは。

浪人時代はなかなかつらく、「このまま受からなかったら俺、何者でもないまま人生終わるな・・親にも申し訳ないよ」と毎日のように思っていたから、2浪目にようやくムサビのアブラに受かったときは心の底から嬉しかった。いまだにあれを超える喜びや安心を感じたことがあるか、容易には思い出せない。
試験ではガチガチの、誰が見てもけっして面白くはないような、でもまあ上手いことはわかる、みたいな油絵と、木炭をとりあえず真っ黒になるぐらいまで木炭紙に塗りこんで、陰影のコントラストを強くつけて印象にだけは残りそうな自画像を描いて出したけど、それが何とかパスした。
すでに学科の得点はギリギリの低レベルだったろうから、余計になんというか、これならようやく受かるというぐらいの頃に滑り込みで受かった感じじゃないかと思う。

地獄のような浪人時代だったけど、受験がまだ遠く感じられる春から夏の終わりにかけての頃は毎年調子がよくて、先に言った参考作品になるような絵を何枚も描いた。2浪のその頃はとくに快進撃で、たしか何週間か連続で、5〜6枚の絵がすべて参考作品として予備校に保管されるということにもなった。
ひさしぶりにコンクールでも1位になって、その油絵(人物画)を見た1浪の男子が「ほしいので譲ってください、お金は払います」と講評の後に頼んできて、講師にどうしようかと相談したら、「未使用のキャンバスと交換したら?」と言われてそうした。

2浪の頃にぼくは二十歳で、後半以降はたしかに地獄になるんだけど、夏は夏で別の意味でイカレていて、毎日雪駄を履いてターコイズブルーのマニキュアを両手に塗って、眉毛も細くして鉄人28号のカオがついたネックレスをして街を歩いていた。街と言っても通学に使う船橋や千葉だけど。
そんな夏のあるときに、近所の祖母の家の近くのアーケイドの下を通りながら、ふと首を上げるとそのアーケイドのストライプが空からの光を通してなんだか啓示的というか、面白く見えて、顔を上に向けたまま足だけは前に動かして歩いていったらアーケイドが急に途切れて青い空が目に入って、その瞬間に「あ、全部わかった」と思った。

何がわかったのかはもう覚えていないけど、まあ「すべては繋がっている」とかそんな感じのことだろうとも思う。大学に入ってから読んだ岡崎京子のマンガで、『Untitled』だったかもしれないが、やはりそういう場面があって、そこで言いたいのもそうことだったのかな、と後からふと思ったりした。
今にして思えば、ぼくはそのときに自由を手に入れた。そしてそれにとらわれてしまった。良くも悪くもなく。