読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

103

流氷の上にくらす

以前、Mediumに以下の記事を書いた。

そして敵が生まれる
https://medium.com/@note103/d5d2cec9e41d

今日ふとそこに書いたことを思い出し、またそこからつながることを思ったので、場所を変えて同記事を再掲しつつ、新たに考えたことも記す。

そして敵が生まれる

おお、この人いいこと言ってるな、この考え方は役立つな、この情報は新鮮で面白いな、と思うようなことを言っている人が、同じ文中や一連のツイートの中で、他人を小馬鹿にしたり攻撃したりしていることがある。

典型的な例としては原発関連の話題などでよく見られる光景で、様々な観点がありうる複雑な問題において、一概にどの意見が絶対に正しいなどということは言えないから、Aという意見が論理的に正しくてもそれに真っ向から反対するはずのBという意見も見方によっては筋が通っていたりして難しい。

であるなら、AもBも論理的には正しいとした上で、そのどちらも許容する新たなCの論理を見つけなければならないところ、AかBのどちらかを選ばなければならない雰囲気に飲まれてしまって戦いが生じたり、それがいつまでも続いたりしてしまう。

役立つ観点や論理を生み出すことはそれだけで価値のあることだけど、その価値をより補強しようとして別の論理やその提唱者を悪く言ってしまえば、それはむしろそうした行為をする人への失望をもたらす。

別の論理が持つ事実としての誤りを指摘することに意味はあるが、上で言うのは単に相手に悪いイメージを植えつけて、その結果として相対的に自らのイメージを上げようとする行為である。

こんな風に書けばそれが愚かな行為だということは誰にでも分かりやすいが、実際には少なからぬ場においてこの光景が見られる。そしてそれはなぜだろう? と思う。

この答えの一つは、この記事に示されている。(日経のログイン必要)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140514/264597/?P=9

松田:そして僕は「松田の最終定理」を考えるに至りました。それは「人間には理性は無い」という定理です。
ちなみに第1定理は「人は自分の意見は主張する、相手の意見は聞かない」。第2定理、「サルは反省するが人間は反省しない」。要するに人間は理性で動いていないんです。
(略)
この問題というのは実に根が深いのですよ。まあ、人間には理性がないと言ったらこれは言い過ぎですね。1割が理性で、残りの9割が感性なんです。

Y:私なんかはそうかもしれませんが、理系の大学の先生まで?

松田:ノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンをご存じですか?
(略)
彼が出した本で、『Thinking Fast and Slow』というのがあります。
(略)
単純化して言えば「fast thinking」というのは直感です。「slow thinking」というのは論理です。これを僕流に理性と感性と言いますと、人間は理性が1割で感性が9割だと私は思います。だから世の中の動きはだいたいこれで説明できる。あらゆることを感情が支配し、理性、論理を妨げる。

Y:私は、理科系の科学者こそ自分の感情に左右されず、信じていた仮説でも事実の前にはどんどん改めていくような人なんだ、と期待しちゃうんですけど、全然そんなことはないと?

松田:ないですね。まったく。これは知能、その人の思考能力とは関係ない。だって、大学教授になるような人は、入試を良い成績でパスしたはずですよね。頭は良いはずです。でも自信があるだけに思い込みも強い。それが、当人が「論理的」と思っているところにも影響するんだということです。だから、一度思いこんだ仮説を手放さないことも頻繁に起こる。

日経ビジネス: 「飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当? 間違った説明や風説はなぜ広がるのか(松田卓也インタビュー)より)

カーネマンの同書については僕も以前にブログに書いたが、
http://d.hatena.ne.jp/note103/20130114/1364447376

上の記事の引用(抜粋)部分はいろいろ頷けるというか、自分の感覚に近いものがあった。

これは僕なりに言い換えると、「論理というのは感情という土地に建つ家のようなものだ」ということになる。論理がいかに堅牢で精緻に構築されていたとしても、その地盤がボロボロだったらすぐに崩壊する。

どのように優れた理論家であっても、その根っこというか土台にあるのは感情であって、人間である以上はその構造(原理というか成り立ちというか)から逃れることはできないので、せっかくある時には良いことを言っていても、ちょっと気を抜いたらすぐ感情に(悪い意味で)捕われ、不毛な戦いの引き金にしかならないような攻撃に走ってしまう、というような。

山崎ナオコーラさんの小説に「論理と感性は相反しない」というものがあるけれど、以前にはどういう意味なのかわからずにいたが、そしてもちろん、そこで意図されていることは小説の中にしかないだろうけど、それでも上記を踏まえればそのタイトルで言われていることも分かるような気がしてくる(勝手に)。

論理というのは感情と対置するものではなくて、感情にいわば包み込まれたものだと考えた方がいろいろ役立ちそうだと思う。

宇宙が生まれるより昔

どれだけ論理的で冷静に見える人でも、あるいは実際にそのように生きている人であっても、それは曖昧で予測不可能な動きをする海に浮かぶ船のようなものであって、船がいかに頑強であってもその下が海なので航海を100%コントロールするなどということはできない。

このイメージはさらに、流氷の上に立つ人を想起させる。いかに確定的な思索と言動と行動をしようとも氷一枚隔てた下には無限に近い謎に満ちた海が待っている。人間はユラユラとその上を漂流しながらあれこれと考えたり動きまわったりしている。なんの保証もない。約束された見通しもない。

これはたんにイメージだけの話ではなく、現実的に我々の足元は不確かである。100年前の人間を想像する。そのまま1000年、1万年、数十億年、と過去へ遡ってみよう。いずれ宇宙が生まれるだろう。でもその前は? 5才の子どもが問うようなその疑問に我々は答えられない。不確かな、というよりそこに何があったのかわからないということだけは確実に言える何かの上に我々は立っている。それは流氷の上に立つ誰かのようだ。

それが虚しい、という話ではない。それを思いながら時間を過ごすことで、より求める何かに近づいていけるのではないかということだ。