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感想: 倉貫義人著『「納品」をなくせばうまくいく』をめぐって

掲題の本を読みました。面白かったです。

「納品」をなくせばうまくいく ソフトウェア業界の“常識

「納品」をなくせばうまくいく ソフトウェア業界の“常識"を変えるビジネスモデル

著者およびその主張するところについては、少し前に公開された以下のインタビューで先に(同書の発売より前に)知ったのですが、

クラウドとアジャイルで納品のない受託開発に挑む経営者 倉貫義人 |転職ならDODAエンジニア IT

今思うと、同書のプロモーション的なところもあったのでしょうか。内容は似ているので、もしこのインタビューを読んで興味を持ったら本を読んでみる、というのでもよいかもしれません。

ぼくはまさにそんな感じで読みました。

導入

要旨としては、従来のソフトウェア開発の主流である「一括請負型の受託開発(&納品)」という商習慣からパラダイムシフト(考え方などの転換)して、「納品のない受託開発」という選択肢を作ろう、定着させよう、みたいな話でしょうか。

ここで言う「ソフトウェア開発」っていうのは、まあたとえば依頼主である事業者のウェブサイトとか、そういうインターネット上でサービスを提供する際の道具というかメディアというか、そんなのを作ることだと思えば大きくは間違っていないかと思います。

詳しくは本書や上記インタビュー、あとは著者の会社における以下にもいろいろ載っているようです。
http://www.sonicgarden.jp/category/concept/
http://www.sonicgarden.jp/32

同書に関しては書評というか、感想記事も多く出ているようですので、あらすじを語るように内容そのものを記していく、ということはここではしませんが、倉貫さんのTwitterを見ているといろんな感想記事がどんどんRTされてくるので、それを見ていけばおおよそのところは知れるかと思います。
https://twitter.com/kuranuki

第一印象 / 主題

著者は本書の中で、従来型の「一括請負&納品」による受託開発のデメリットというか、不合理で非効率な面をバシバシと挙げていきます。

なので最初は、「いや言ってることはその通りかもしれないけど、これ、言われてる側(従来型の開発をしている企業など)は素直に受け入れられないんじゃないかな〜」とか、「もう少し受け入れやすい言い方にしないとせっかくのグッドアイディアも生きないのでは〜」とかいう心配を勝手にしていたのですが、読み終えてみるとけっこうバランスが良いというか、要所要所でそういう懸念に対するフォローみたいなこともされていて、前半で投げ出されたりとかさえしなければ、そういう「無駄に敵を作る」みたいなこともないのかな、と思いました。

著者は従来型の開発のあり方とは別の、ある意味では新しい開発スタイルを提唱していて、仮に以前のそれを「納品型」と呼んだ場合、新しいそれは「顧問型」と言えるかと思いますが、この前者が基本的には顧客との一時的な付き合い(関係)を前提とするのに対し、後者は恒常的で永続的な付き合いを指向していると言えるでしょうか。

で、その主張が「前者は古いからもう後者にしようぜ!」みたいな姿勢だったりすると、なかなか受け入れられづらいと思いますし、実際それはナイだろ〜って感じになるわけですが、ここで主張されているのは、「前者に向いてる状況もあるだろうけど、後者の方が適してる状況もあるんだから、そういう場合は後者を選択しようぜ!」みたいなことなので、その辺がうまく伝わればいいんだろうな、と思います。

選択肢を増やす

たとえばぼくは、毎日ダイエットコーラを飲みますが(具体的にはペプシネックスですが)、それは「味のついた炭酸飲料を飲みたいけどレギュラーのやつは甘すぎる」という理由でそれを選んでいるわけで、もし世界にダイエットコーラがなかったら多分そもそもコーラ自体を飲まないと思われるわけですが、そんなぼくから見ると、この「納品のない受託開発」というのはダイエットコーラ的な「新たな選択肢」としてあるように思えてきます。

ついでに言うと、いま世間では缶チューハイやスピリッツのアルコール度数がどんどん上がって、かつては5%程度が普通だったのが、今では8%ぐらいが当たり前というか、低価格でどっぷり酔える、いわば「コストパフォーマンスの良い甘味系炭酸アルコール飲料」の全盛みたいになってるんですが、ぼく個人の好みとしては、それだとすぐに酔っ払ってしまってお酒の時間自体をあまり楽しめないので、もっと低アルコールのドライな(甘くない)炭酸アルコール飲料がいろいろ出たらいいのになあ、とは常々思っており(ノンアルコールとか、やけに甘いだけの低アルコールのそれでもなく)、しかしあまりそういうのに合致したものもないので、この界隈ではまだパラダイムシフトが起きてないな、と感じたりしています。

閑話休題。著者の言う「納品のない受託開発」の良さ、そして従来型のデメリットについては、書中で一つ一つ論理的な説明が成され、まあそうだろうな、という感じなので、その辺の「べつに全部入れ替えようってわけじゃないんだよ」「適材適所なんだよ」「これまで必要とされていたにもかかわらず存在していなかった選択肢を作ったんだよ」というあたりが上手く浸透すればいいんだろうなと思っています。

言いづらさのメリット

もうひとつ、読みながらつくづく思ったのは、「納品のない受託開発」というこの言い方、バズらないよな、ということで、でもそれはべつに悪い意味ではなく、たとえば「ビッグデータ」とか「クラウド」とか「アジャイル」みたいな「言いやすい」「ちょっと言ってみたい」「よくわからないけどそれ言うとなんか知ってるふうになる」みたいな感じで言葉が流通してしまうと、それを遠巻きに見ている、かつその内容をまだよく知らない人が、つい天邪鬼的にそれを敬遠してしまう、みたいなことになりがちなので、そういう「消費される言葉・概念」になりづらいという意味で、このバズりづらさ、言いづらさ、まあ何しろこうして何度か書いていますが、「納品のない受託開発」は書きづらい、書くのが大変面倒くさいので、「それでも言いたい人だけが言う(書く)」という状況になっているのは、著者の意図かどうかはわかりませんが、まあよい面ではないか、とも感じます。

ちなみにこれ、なにか名前をつけるとしたらなんでしょうね・・なんちゃら開発、とかいう言い方になるのかもしれませんが。それに普通に想像すると、一応はネーミング、著者さんも考えられたとは思うのですけども。

そもそも、この書名もそうですが、「納品のない〜」「「納品」をなくせば〜」というふうに、否定形がその存在、概念を表しているという時点で、けっこう異例ではありますね。それは言い換えると、つねに「従来型と対になってこそ成り立つ概念」であるということを示してもいるわけで、その意味でも、「全部を塗り替えるわけではない」「従来型と住み分ける、分担しあう関係なのだ」というところは(少なくとも現時点では)外せない要素なのだろうなと思います。

注釈の妙

話は飛びますが、同書では時折出てくる注釈や、注釈にはなっていないけど本文で説明されている専門用語の解説などが非常にわかりやすく、またその「一応この言葉、知らない人もいると思うので説明しておきますけどね……」というふうにピックアップされる語句がいちいちツボを突いているというか、「そうそう!その言葉、前から曖昧だったんだよなあ、そうなんだ、やっぱそういう意味なのね」みたいなことがたびたびあり、その辺はもっと評価されるべき、と感じました。(されてるのかもしれませんが)

たとえばですが、「システムインテグレーター」とか、あと「クラウド」の注釈もけっこうそういう感じで役立ちました。また、そうしたそれぞれの解説が、「本来はこういう意味の言葉だが、この業界ではちょっとズレてこういう意味で通っている」みたいな感じで多層的に説明され、しかもそれらがどれも1〜2行で簡潔かつ平明に説明されているところなど、ぼくも普段の仕事でよく注釈作りますけど、これはすごいなあ、と思いました。

そしてそういう作りっていうのはようするに、これがソフトウェア開発の現場や、エンジニア、プログラマーといった業界の人だけを対象としたものではなく、そのもう1〜2層外側の人たちにも向けて書かれていることを示しているのではないか、とも思われ、実際これを起点に、別の業種にこうした合理的な考え方を知らせていく、ということはそれほど突飛な未来像でもないだろうと思います。

肉じゃが理論

本書で語られていることというのは、著者自身が「パラダイムシフト」と幾度か言うことが逆説的に示すように、現状ではまったく主流ではなく、むしろ異端というか、まだまだ懐疑的な人も多かろうと思います。というか、懐疑的になってもらえればまだいい方で、おそらくは単にまだあまり知られていないので、それこそある程度バズって、よく知らない人から「なんだよ、あんなの」とか言われ始めてからが本当の勝負なのかなとも思いますが、いずれにせよ、その本当の勝負において大事になってくるのが、「いったいどれだけの人がそれを実践し、それなりの成果を出したのか」という点であろうと思います。

その点、すでに著者は一定のアドバンテージを持っていて、なぜならこれは単に机上の空論ということではなく、著者自身が3年(でしたっけ)にわたって自身の会社で実践し、成果を出してきたという実績があり(まあぼくが直接その実態などを見たわけではないですが)、さらに説得力を補強するかのように、同書には顧客インタビューというコーナーで2タイプの事例が掲載されているので、「こーんなふうに、なればいいあ〜とか思ってるんですよねえ(笑)」みたいなユルい話ではなく、現実世界でちゃんと叩き上げられているということが嫌でもわかります。

新しいことを始めようとしたときに、それによって不利益をこうむる人が嫌な顔をするのはある意味で当然ですが、べつに自分が損するわけでもないのに、なんだか拒否反応を起こすという人も居て、それを一概に悪いとはいいませんが、でもそのせいで、本来広まるべき、というか広まったら少なからぬ人が幸せになったろうと予想されるものが、そうではなくなった、みたいになるとけっこうツライというか、残念です。

ぼくの知り合いで、すごく印象深いことを言っていた人がいて、「新しいことをやろうとか思うな。料理でも、ちょっと変わった味付けしようとすると失敗してマズくなって、食材を無駄にするだろ。逆に肉じゃがっていうのは、今まで長い歴史を経て人々が作ってきた料理だから、誰が食ってもウマイだろ。新しい料理を作るんじゃなくて、すでにあるものを丁寧に作ることが大事なんだよ」という話でした。
そのときは、へえ〜、なるほどね、と思ったし、実際頷ける部分もあるんですが、よくよく考えると、「じゃあ初めて肉じゃが作った人ってどうなるの?」という問題もあって、まあ、破綻している。破綻しているけど、こういうことを言う人は厳然として存在していて、しかも自信を持っている。そういう人が悪いとかダメとかいう話ではなく、考えるべき問題は、そこで「なるほどねー」と思ってみたり、それについてこうして書いているぼくも含めて、ある種の人間の中にはそういう「肉じゃが理論」で考えてしまう部分が確実にあるということで、それをじゃあどう乗り越えて、どうやって新しい選択肢、役に立つ考え方を提示し、実現していけるのか、という点にあるのだろうと思います。

ようは意識的であれ、無意識的であれ、こういった異例の試みに反発を感じたり、嫌だなと思ったりする人たちとどうやって楽しい世界を作っていけるか、ということが、おそらくは今後長い時間をかけて解決していかなければならない重めの(そして避けがたい)課題になるのだろうなあ、とも思ったりしました。

求められる実践者

上記のように、この方法論はすでに著者自身が少なからぬ期間、実践しているという意味で、机上の理論とは言えないものではありますが、同時に、まだ孤独な戦いの最中であるとは言えて、結局のところ、この主張、試み、方法論の真価というのは、今後どれだけの著者以外の人による実践が成され、また成果を上げていくのか、という点にかかっているのだろうとも思います。

それは一朝一夕に達成される目標でもなく、著者自身もまた数十年単位の長い時間がかかることを書中(のどこか)で書いていましたが、それだけ長い変化の、今は突端、兆しに立っているということなのだろうと思います。

で、これを読みながら、というより読む前から、「この本を読みながらこういうことを考えるだろうなあ」と思っていたのは、自分がこれを参考にどういう働き方をできるだろう? していくべきだろう? ということで、じつのところ、ここで提唱されているような働き方というのは、すでにぼくが現時点で実践していること、また目指していることにかなり近い部分、重なっている部分があると感じられて、その意味でもいろいろと参考になるところがありました。

ぼくは今、こういう企画にフリーの編集という立場で携わっていますが、

commmons:schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

commmons: schola vol.13 Ryuichi Sakamoto Selections: Electronic Music

commmons: schola vol.13 Ryuichi Sakamoto Selections: Electronic Music

ここでやっていることは厳然たる「納品型」でありつつ、また一面では「顧問型」のようでもあり、その割合は巻の内容や時期によってバラつきがあったりしますが、今後よりどのようにしていきたいか、といった場合にはやはり後者というか、実際にやっている作業の内容に照らし合わせても、その方がフィットすると思える部分が多いのでそうしたいんですが、ではそうした方向にシフトしていくにはどうしたらいいんだろう? ということを考えるにあたって、本書は良い参照先になる気がします。

大変でいい

一例を挙げると、ぼくが今の仕事で担当していることというのは、けっこう多岐にわたるというか、限られた種類のことを集中的に繰り返しながら洗練していくというよりは、マルチタスクぎみにあれもこれも、それがまたどれも違うテイストのことだったりして、具体的には一人でグッと引きこもって原稿を仕上げなきゃいけないようなときもあれば、外部の初めてやり取りをするような専門家の先生方と連絡を取り合って、取材をしたり交渉をしたりするような(そしてそれを円滑に進めるために初めてのことを勉強したりという)こともあったり、あるいはメールやチャットで同期的/非同期的にインターネット上の連絡を取ることもあれば、電話やFAXや直ミーティングを繰り返すこともあったりで、なかなか一つのことに集中できない、フロー状態に入れない、みたいなジレンマがあって、そういうときには、「もっと〜だけをできればいいのに」とか「〜は別の部署に任せられたらいいのに」とか思うこともありましたが、本書を読むと、この「納品のない受託開発」で仕事をするエンジニアの人たちは基本的に誰もがその状態というか、エンジニアがプログラミングも営業もマネジメントも全部一人でやり切る、的なところがあって、だから従来型の開発にあったようなデメリットはないけど、それは単純にそれまでよりラクができるってことじゃないんだよ、と。これをやるにはそれなりのすごいスキルや経験や人間性が必要になってくるよ、みたいなことがあって、それを見てなんというか、「ああ、なんだ、大変でいいのか」と思いました。

これまでは、「こんなに大変なのはおかしい。きっとやり方が間違っているんだ」とか「もっと効率的に、同じ労力でより高い成果を上げられるはずなのに」とか思っていて、そういう指向自体は必要に違いないんだけど、それだけの話でもないなと。
別の観点から言えば、「作業Aだけに集中できる状況」というのはたしかに良い面もあるけど、それは「作業Aしかできない人間でよい」ということでは全然なくて、だから今自分がやっているようなことにしても、まあ、どう考えても向いてないのに無理やりやってる、やらざるを得ない、というのは問題であろうけども、そうではなく、マルチに担当しているそれぞれの作業がそれなりにスキルとして積まれているのだとすれば(仮定ですが)、それは明らかに自分にとってはプラスであって、「AもBもCもDもやらなきゃいけない状態」というのは「AもBもCもDもできる人間になりつつある」ということじゃないの、それは良い面もあるんじゃないの、というふうに思えてきたというか。
そして実際、そうした状況から今後すぐに別の立場へ変わるわけでもないことを考えれば、余計にそうした考えの転換はプラスになったというか、救われる面があったとも感じます。

もちろんその一方で、なんでもかんでも参考になるということではなく、ぼくのような(少し特殊な)編集者と、著者・倉貫さんの会社であるソニックガーデンや、その社員の人たちとの間にはそれなりに異なる状況もあるわけなので、「ああ、ここは応用できるな」とか「ここで言われていることは自分の弱いところだからもっと補強すると良さそうだ」というふうに自分と重ねられるところもあれば、「ここはそもそも参考にしようがないよな」とかいう部分もあり、そういう異同をいろいろと感じながら読み進めました。

連想したこと

ちなみに、本書を読みながらぼくが時折思い出していたのは、知人の西條剛央さんのことで、近年では「ふんばろう東日本支援プロジェクト」というボランティア団体の代表としての活動の方が知られているかもしれませんが、元々は心理学者・哲学者、本人は理論工学者(?)と自称されていた気もしますが、彼の論理の立て方に近いものがここにはあるような気がちょっとしました。
また、理想論をぶつだけでなく、それを自ら実践することで論の確かさを証明しようとする、というあたりも似ていると感じた理由かもしれません。

西條さんはおもに上記の団体における活動を通して、まあ毀誉褒貶というか、いろんな面が取り沙汰され、ぼく自身もまた、以前にここにいろいろ書いたかもしれないように、彼のすべてを正しいと思っているわけではないですが、それでも良い部分は良い部分として明らかにあり、そういうところが上手いかたちで社会に広まっていけば、誰しもが限られた人生を多少なり幸せに生きていけるのでは、と思わなくもありません。

彼もいろいろ著作を出していますが、専門的なものかボランティア関連か、ぐらいの選択肢しか思い浮かばないので、コレというものが勧めづらいですが、個人的には彼の師匠である池田清彦さんとの対談集が好きで何度も読みました。一番読んだのは2006〜7年ぐらいですかね。最近は読んでないので、今読んでどう思うかはちょっとわからないのですが。

科学の剣 哲学の魔法―対談 構造主義科学論から構造構成主義への継承

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まとめ

なんだか別の話になりましたが、一応まとめます。

やっぱり一番、読みながら思ったのは、「それ、論としてはいいけど、現実味ないだろ」「絵に描いた餅だろ」みたいな声は絶対出てくるはずで、そういう態度にどう対するのか、みたいなことでした。
本書では、そうした声をいくつも事前に想定して、具体的に答えているわけですが(「このように思う人もいるでしょうが、それに対してはこうするのです」みたいなパターンがよく出てくる)、そもそもそういう反発を覚える人は、わざわざ本書のそういった説明を読んだりはしないとも思われるので、その溝が埋まるには(著者自身も想定するように)時間がかかるだろうなと思いますし、逆に言うと、その覚悟さえあればとりあえずいいのかなとも思います。

また同時に、上記の肉じゃが理論みたいなことを、「一括請負型(納品型)の受託開発」の良い面であるかのように言う人も少なからず居るはずで、そういうのも面倒は面倒だろうなとは思います。(しかもすべてが間違っているわけではない、というところがそういう論理の厄介なところなわけですが)

よって、いや適材適所なのだと、従来型がすべて無くなるべきだと言っているわけではないのだと。しかしすべてが従来型であるのはやはりおかしい、理不尽であると。だから選択肢を増やしたのだと。写真が生まれても絵画が残っているように、従来型も必要性があれば残るのだと。逆に携帯電話が出たことでポケベルがなくなったように、もし新たなスタイルの登場により従来型がなくなるなら、それは新たなスタイルが正しいとか古い方が劣っているとかいう話ではなく、人々がより良い生活を享受できるようになったということなのだと。
そんなふうなことをあの手この手で(時に熱く、時に静かに)訴えながら、これが社会や人生をベターにしていくひとつの試みになっていったらいいな、ということを思いました。