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松本隆の残した仕事

昨夜ふと書いたツイートが、今朝起きて見たらえらいRTされていて、

ん? と思ったら松本隆さんがRTしてくださったことがきっかけのようだった。

松本隆さんと言ったら連想的に思い出すのは『1969年のドラッグレース』で、2011年の1月に坂本龍一さんと大瀧詠一さんの対談をavexで収録したとき、大瀧さんがセカンドラインの話題で「ぼくもセカンドラインで作った曲が2曲ありますよ」と言って、当たり前のように答えは教えてくれなかった。

その時ぼくは大瀧さんの予習をそれなりにしていたつもりだったけど、『1969年のドラッグレース』以外のもう一つがどうしてもわからなくて、中途半端なことを言いたくなかったから結局何も言えなかった。

後から手持ちの音源を聴き漁って、それは『座 読書』かな、と思ったけれど、結局それを本人に聞く機会はなくなってしまった。

家でいろいろ漁っているときに『1969年のドラッグレース』もあらためて歌詞カードを開いたりして、そのときに「ああ、これも松本さんなんだな」と思ったのかもしれない。松本隆と言うとだからその曲を思い出すし、そのタイミングで一緒に聴いた『論寒牛男』の超絶演奏のことも思い出してしまう。鈴木茂さんはアンプの上に乗ってギターを弾いたと何かの本で読んだ気がするけど、本当なのか、それとも僕がボーっとしていただけなのか。でもアンプの上で演奏していても全然おかしくないすごい演奏だ。


Wの悲劇』は何しろタイトルがすごい。原作は夏樹静子というからその小説を読んだら意味はわかるのだろうけど、1975年生まれの僕にとっては「ザ・ベストテン」などで同曲が流れて、歌を聴いても歌詞を読んでも何が「W」で何が「悲劇」なのかまったくわからないところがすごい。それを小学3年生とかで聴いていたのだから日本の芸術教育はその頃、図らずもかなり底上げされていたのだろう。(それを証明するかのようにその10年後、僕は美大に入った)

今朝、RTされた流れで松本さんのツイートや松本さんに呼びかけている人たちのツイートを読んでいたら、『風の谷のナウシカ』もまた松本さんの歌詞なのだと知った。前から知っていたかもしれないけれど、とくには意識していなかった。

先月の末に、1年以上かけて編集した本がようやく校了したから短い休暇をとって旅行に行った九十九里の国民宿舎で、延々オルゴールのJPOPみたいなBGMが館内に流れていて、大半はちょっとげんなりするようなものだったけど、一つだけすごく素敵で奇妙なメロディの音楽があって、聴いたことはある気がするのだけどすぐに思い出すことができなかった。

それは大浴場から自分の部屋に戻るまでの廊下で流れていたのだけど、あまりにも良い曲だから途中のソファに浅く腰掛けて、とりあえず曲が終わるまで聴いていようと思った。普通だったらまずありえないことだけど、それだけの価値があると思った。

どう考えてもポップミュージックのサビではない、AメロやBメロだと思われる部分が何度も繰り返されて、本当に変な曲だと思ったけど、半ば諦めかけたところで、いきなりサビになってそれは「風の谷のー」と歌われるナウシカだった。うわ、ナウシカか、それならわかるわー……と思って安心して部屋に帰った。

ナウシカもあまりにもすごい曲で、安田成美がデビュー直後にいきなり歌わされて歌えなくても仕方がない。プロの歌手でもそうそう歌えるものではない。


角川映画における薬師丸ひろ子の名曲といったらもちろん、『Wの悲劇』『探偵物語』『メイン・テーマ』である。(順不同)

検索してみたら『メイン・テーマ』は片岡義男原作、森田芳光監督、そして主題歌の作曲は南佳孝だった。なんという「これ以上ない」組み合わせか。80年代の欲望をテーマに絵画を描くならそのタイトルは『メイン・テーマ』でしかない。

角川映画の生み出したものはとても大きい。角川映画がなくなってそれを引き継ごうとしたのはホイチョイ・プロダクションだったのかもしれない。『彼女が水着にきがえたら』の主題歌になったサザンの『さよならベイビー』はサザン史上初のオリコン1位だったと当時聴いて、こんなに地味な曲がこれまでのどの曲よりも売れたなんて、僕は好きな曲だけど売る側はちょっと微妙な気分じゃないか、と子供心に思ったものだった。(14才だった)

ホイチョイ・プロダクションはなぜ瓦解してしまったのだろう? 角川映画は今なお異物的な存在感(もっとも俗物的でありながらもっとも先鋭的でありいつまでもけっして高尚にならない存在感)を放ち続けているけれど、ホイチョイはどこからか格好悪くなってしまった。年をとったことを隠そうとするある種の男性のように。


松本さんと僕に対してリプライを送ってくれた誰かが、「『Wの悲劇』もいいけれど自分は『探偵物語』の方が好きだ」と言っていて、僕も『探偵物語』は好きな曲だ。これも圧倒的にすごい歌詞ではある。

あんなに激しい潮騒が  あなたの背後で黙りこむ

すぐに出てくる最初の1行。なぜ出てくるのかと言ったら、他に何もすることがなかった大学1年の頃、一人暮らしのアパートで「歌本」みたいのをめくりながら、コードを追って一人弾き語りをしていたのがその曲だったからだ。ギターを練習するには何度繰り返しても飽きない曲が必要で、その常連は大体松任谷由実の曲か薬師丸ひろ子の曲だった。

今あらためて聴いてみると、何だか薬師丸ひろ子が歌っているのか大瀧さんが歌っているのか、わからなくなってくる。二人の声が頭のすこし上の方で溶け合うようで、気がつくと大瀧さんがあのささやくような、でもけっして途切れもしないような仕方で歌っているように、夢見てしまう。


映画監督の奥原浩志という人が好きで、大学2年の頃に『波』という作品を新宿のシアタートップスまで観にいったら、もらったパンフレットだか何かに載っていた監督のコメントに、

愛ってよくわからないけど  
傷つく感じが素敵

の一節が引用されていて、確かにいいなと思った。

映画も詩も時間をとめる。今ぼくがここにいる、そのことをすべて無くして別の時間の中に連れていかれてしまう。

松本さんは時間を描いている。いや多くの詩人がそうなのかもしれないが、詩人は時間そのものを作ることはできず、しかし時間がそこにあったことを刻むことができるのは人間だけで、それをする人間が詩人ということなのかもしれない。


冒頭のツイートでは

誰に向けて作ったのかわからないほどのレベルの高さ

と書いたが、それをiPhoneに打ち込みながら思い描いていたのはJ.S.バッハのことだった。僕はバッハについて詳しくはないけれど、バッハが他の誰でもない神に向けて(彼の中の神に向けて)彼の音楽を書いていたのだということは何となく想像できる。

以前によしもとばななさんが、彼女の日記の中でだったか、表現者は同時代に生きる人々に対してではなく天上の何かに向けて作品を作る、みたいなことを言っていて(もっといい感じの説得力のある言い方で)、それは具体的な誰か人間ではない、しかし明らかにそれでしかない何かに向けて作ることが、結果として長く人々に降りそそぐ作品を生み出すということを言っているし、同時に『Wの悲劇』に対して僕が感じた「これって一体、誰に向けて作っているんだ?」という恐怖にも似た疑問へのひとつの解答にもなっている。