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意図的に傷つけない。しか出来ない

示唆的なできごと。
不備の多い英文和訳テキストに対して、「間違いだらけじゃないか」と突っ込んだ人がいて、それに対してまた「その言い方じゃみんな萎縮して翻訳する人がいなくなるだろ」的な突っ込みがあった。
http://d.hatena.ne.jp/takeda25/20141012/1413116292#c1413243487

ぼくはこの突っ込みコメントは論理的にちょっと変だと思う。元の和訳を書いた人に対して「不備があっても公開する方がいい」と考える人が、その間違いを指摘する人には「もっと紳士的に指摘すべきだ」と言っているからだ。
不充分な和訳を公開してよいなら、不充分な(充分には紳士的でない)指摘もまたあってよいはずだ。

そもそも他人の間違いを指摘することは簡単ではない。「私は確かに間違っていたかもしれないけど、その指摘の仕方はひどい。もっと丁寧に教えてくれればいいのに」という事態はそこいら中で起こっていて、これを避ける方法はほとんどない。
人間は自分が否定されることを避けがたくイヤだと思う生き物で、100%自分に非があっても尚そう思ってしまいがちだ。だからつい「その言い方がおかしい」となってしまう。

そうした言わば繊細な人間が抱える地雷を避けながら、言われた側も気持ちよくなるように間違いを指摘するためには、ある程度の(というかかなりの)人生経験や技術を積む必要がある。だから不充分な和訳テキストを書く人がいるように不充分な指摘をする人もまたいて、前者を発展段階にあるという理由で擁護するのであれば後者に対してもそうするべきだろう。どちらも認めない、というならそれもまたフェアだと思うが。

和訳が間違っているかどうかは正誤の問題だが、指摘に傷つくかどうかは気持ちのありようの問題だ。
正誤はある程度厳密に複数人で意見を統一できるが、人が傷つきやすいかどうかを良いとか悪いとか言うことは難しいし、そうすべきであるかもわからない。

ただ言えるのは、「傷つきやすい側に立ってはいけない」ということだ。言い換えるなら、「「傷つけてはいけない」ということを一番の目的にしてはいけない」ということになる。それは不可能なことだ。
くり返しになるが、自分の不備を指摘されたら誰だって多かれ少なかれ嫌な気持ちになる。自分を俯瞰的に見られる人ならそうでもないかもしれないが、誰もがそうであるわけではない。というか、その人が何を言われて傷つくのか、なんてことを他人が知ることは不可能で、だからそれを避けられる確実な方法はない。
つまり間違いの指摘という行為は即、誰かを傷つけることにつながっている。「傷つきやすい側に立ってはいけない」ということはだから、「間違いの指摘をできない状況を作ってはいけない」ということだ。

間違いの指摘は成されなくてはいけない。全人類が自習することしか許されない世界は向上しない。人が何千年も生きられる生き物ならばそれでもいいかもしれないが、向上の速度が遅い世界で生きるには人の寿命は短すぎる。

それは人を「どんどん傷つければいい」ということではない。間違いの指摘をするときに、「傷つけることを目的としない」ということはできる。
というかそれしかないという気もする。

他人の間違いを指摘することはそれ自体がリスクである。「もっと優しく言ってくれればいいのに!」と、いわば逆襲される可能性をそれはつねにはらんでいる。それでも世界を、というかもっと局所的なその状況を、もっと良くしたいと思うならそれでも言わなければいけない時がある。

人がどんな言葉や態度で傷つくかなんてわからない。傾向はあっても100%予測することはできない。それぞれの人間がどんな環境に置かれてどんな経験をしてきたかは千差万別で、ひとりの人間も1秒また1秒と変化している。だから「どんなことを言ったら傷つくか」もつねに流動的であり、そのような流動的なものを基準に間違いの指摘をすることは不可能であり、それを避けたいなら沈黙するしかない。そして他人による間違いの指摘が成されない世界は非効率きわまりない。

我々は不充分な行為を重ね合いながら少しずつ世界を向上させてきたのであって、少なくともぼく自身はその「向上のバケツリレー」に何らかの役割を果たしたいと思う人間だ。誰かを傷つけるために生きているのでもないが、かといって「傷つけない」ために生きているのでもなく、もし人生の目的が「誰かを傷つけない」ことであるなら今すぐ死ぬしかその目的を成就する方法はない。それ以外の人生の目的を持ちながら、かつ最大限他人の気持ちを配慮しながらその間違いを指摘するためには、他人がそれをどう思うか、という想像力を働かせながらも最終的には「傷つけることを目的にしない」ことしかできない。