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論理しか扱えない

一生懸命やっているのだから、ちょっとぐらい間違ってもいいじゃないか。悪意はないのだから大目に見てやろう。みたいな話はよくあって、確かにそうだと思えることも少なくはないが、多くの場合は「どんなつもりでやったか」より「何をやったか」の方が問題にはなるしそうあるべきだ。

善意で人に迷惑をかける人と、悪意のつもりが人の役に立ってしまった状況があったなら、僕は後者を評価したい。その後に後者の人は見事悪意を成就させるかもしれないがそれは別の話で、ここでは「つもり」と「事実」の違いを問題にしている。

事実は情報として検証や再利用することが可能だが意思は目に見えずコントロールも難しい。 コントロールできないものを何であれ行為の基盤に据えてはいけない。

意思や意図や一生懸命やらはコントロールできない感情の上に立っていて、それは「動力」ではあるが「方針」にはなりえない。過去に積み重ねられた事実や研究の上に立つ論理は人間がコントロールできるものであり、そうであるがゆえに人間がより重視すべきは論理であって感情ではない。

「一生懸命」は偶然に訪れる恵みでありそれは期待したり重視したりするものではなく、人間はコントロール可能な論理を唯一の与えられた武器として洗練すべきである。

物事を成し遂げるために必要なものは論理と感情の両方でありどちらだけでも足りないが、人間にできるのは必要な爆発力をもった感情がやがて訪れることを待ちながら適切な論理をただひたすら磨き続けることだけである。