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投票へ行くべきか

投票率の低さが話題に挙げられるときには大きく2つのパターンがある。

ひとつは世代で区切る見方である。このときに言われるのは、「若者の投票率が低い」ということである。
もうひとつは、地域や県で区切る見方である。今回で言うと僕の住む千葉は全国ワーストをひた走っているようである。
この二つを重ねると、「千葉の若者」は最悪だということになる。たしかに僕も大学生の頃にはほとんど選挙に行っていなかった気がするので、この指標は現実のある部分を反映していると言えるかもしれない。

しかしながらもちろん、本当にそうなのか(「千葉の若者」は最悪なのか)は分からない。千葉の投票率が何%である、という数字自体はそれなりに正確だと想像できるが、同時にその計算工程においてまったくバグがないと言えるかは分からない。何を何で割ったらその数字になり、投票率1位の県と千葉との間に「だらしない人間の有無」という要素以外のどのような加味すべき点も考えられないのかどうか、こうしたことを話題にする以上はもう少しそういった点も丁寧に検証すべきではないだろうか。
もちろん、雑談の軽いネタにする程度であればいちいちそんな検証をする必要もないだろうが、その雑談によって残念な気持ちにさせられる千葉県民もいることは想像してもよいかもしれない。

若者の投票率に至ってはそれ以上に根拠が分かりづらいと思っている。そもそも具体的に「何歳」の投票率が低いのだろうか。29歳は若者か? 34歳ならどうか? 43歳はもう若くないか? 
そうした統計を厳密に把握した上で話題にしている人も中にはいるだろうが、大半はざっくりした印象を述べているだけだろう。厳密なデータを把握した上で話すべき、という意味ではなく、そういうことをとくに把握せずにラフな印象で言っている自覚があるかどうか、という話である。

また、仮に「24歳の投票率が全世代でもっとも低い」のだとして、それは具体的にいつに比べて低いのだろうか。30年前、70年前のそれに比べてどのぐらい落ちているのだろうか。その変化は、では52歳におけるそれと比べてどうなのだろうか。52歳の投票率は30年前や70年前に比べてどの程度維持されているのだろうか。

問題は、だから投票率ではない。問題は、投票率を問題に「すり替えて」しまうことである。本当の問題は、望む社会を思うように作っていけないことにある。それができない理由を投票率の低さに求めるのは論理の飛躍が過ぎると思う。

投票率が低い、あるいは誰かが投票をしていない、という状況は「わかりやすい」。自分が投票をしているなら尚のこと、「悪いのはそいつだ」と言いやすい。投票へ行かないお前は社会を悪くする人間に加担している、よってお前も悪いやつなのだ、と「言いやすい」。
しかしそれはやはり、目の前にある叩きやすいものを叩いているだけの行為だと思う。本当に相対するべきは、自分が「悪いやつ」(または考え)だと思うその対象であるはずだ。
問題は投票率でも、投票に行かない人間でもなく、問題のある社会を作ろうとしている人間(または考え)である。投票に行かない人間を叩くのは、本来の目的を見失った行為である。

また時に、投票率の低さを糾弾する人々の態度の裏には、ふだん投票に行かない人間が行けば、自分の支持する政党なり政治家なり政策なりがその分の票を得る、という素朴な思い込みがあるようにも思われる。もちろん「投票へ行け」という人は「**党へ投票しろ」などとは言っていないが、実際には言葉になっていない部分で、自分と同じ方向に一票入れてほしい、または入れるはず、という見込みを持っているのではないだろうか。
しかし投票に行かない人というのはそもそも、それほどの社会に対する強い問題意識を持っていないから行かないのだと想像され、そうした「現状維持」や「成り行きまかせ」の指向をもった人間がようやく投票所へ行ったところで、そのような目論見は達成されづらいのではないか。というより、そういう人は投票に行かないことによってすでに「現状維持」に一票を投じているとも解釈できる。

僕自身は結構前から行くようにはなった。なぜならそれは数年に一度の(あるいは年に数度の)お祭りだからである。
選挙はオリンピックよりも楽しみである。オリンピックは4年に一度と決まっているし、そもそもスパンが長すぎるが、選挙はいきなりやることになったり、あるいは次が決まっていたところでみんなでずっと待ちわびるようなものでもないから、思いがけず届いたプレゼントのように目の前に現れる。
選挙の楽しみは、自分の一票が、有効か無効かにかぎらず、100%確実に選挙速報の向こうに表れることでもある。それはどこまでも深い井戸に落とした小石が、いつ音を立てるか耳を澄ませる行為のようであり、その意味では極端に音の小さな楽器のようでもある。オリンピックの中継を見ながら「今自分がここにいること」の余波をこのように感じることはない。
自分のアクションが、自分から独立した何かに影響を与えるということは(それがどんなに小さな変化であれ)、人間の根源に関わる楽しみだと思う。