読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

103

作者と受け手の関係における制作上の決定権について

先週木曜から日曜にかけてのRubykaigi2013と、そのスピンオフ的なRubyhirobaを、それぞれUstreamTwitterハッシュタグで仕事の合間に追いかけて、その雰囲気や内容を楽しんだ。

http://rubykaigi.org/2013
http://rubyhiroba.org/2013/

ほぼすべてが終わった頃になって、発表の一部でジェンダー問題に関わる不適切な内容があった的な話が出て、少し不思議な気になった。というのも、追いかけている4日間においては、そういった空気は全く感じていなかったからだ。
まあ、最終日のRubyhirobaの方に関しては、Ustとかも無かった上に、その日は自分の作業もかなり集中していたので(日曜は仕事仲間からのインタラプトがないのでほんとに捗る)、そういう感じがあっても分かりづらかっただろうとは思うが。

kaigiとhirobaのそれぞれにおいてひとつずつ、そうした対象となりうるトピックがあったようで、たしかに後者の発表者のblogを読むと、色々まずかったのかなとは思ったが(とはいえそれも自らすすんで説明しているのであり姿勢としてはけっして悪質とは感じなかったが)、前者に関してはちょうどリアルタイムでUstで見ていた内容でもあったので、そんな問題あったっけ? という感じだった。感じだったが、そう言われて指摘された部分をぼんやり思い出すと、そこはちょうど僕も「ん?」と思った部分でもあった。しかしそれは単純に、本来の興味深い文脈からちょっと外れた部分というか、あまり面白くないネタ使ってるな、という程度の違和感でもあって、さほど深刻な何かを想起させるものともやはり思われなかった。

そのkaigiにおける該当の部分というのは、発表者個人の性格とか物の考え方を反映したものであって、好みのズレが浮き上がりやすい部分ではあったかもしれないとは思うが(実際その点だけに限って言えば僕の好みともズレていたわけで)、しかし糾弾されるほどの落ち度かといえば疑問がある。逆にいえば、その部分に対しても積極的に同調・受容できる観客はいたと思うし、女性の中にいてすらとくに不思議ではない。
もしもあれを「面白くなかった」「クオリティが足りなかった」と言うのであれば、それは指摘者の観点からすれば妥当かもしれないと思うが(ちなみに僕は発表全体としては面白いと感じたが)、あれをしてPC的にNGというのは、けっこう文脈無視というか、枝葉に焦点をあわせすぎではとも感じる。
もちろん、どのような意見であれ感想であれ、自由に主張できるべきだという立場に立つなら、どれだけ枝葉だけに絞った指摘であっても、成されてよいと思うが、対象となる発表がそうであるように、指摘自体もまた、大局的に過不足なく評価・吟味されるべきだろうとは思う。

そのようにして考え至るのは、この場合であれば「PC的にNGだ」という指摘そのものが持つ力に関することである。それは時に必要であり、有用でもあるだろうけど、力を持ちすぎては有害な抑圧になってしまうのではないか。言い換えれば、それはやり過ぎれば人間から自由を奪う行為になってしまう。

作者Aによる作品aと、受け手Bによる意見bとがあった場合、Bにあたる誰もが、自らの意見bを自由に言えるべきである。
そして同時に、そのように提示された意見bを、作者Aが作品aの中に取り入れ、修正するのか、あるいはその声に深く耳を傾けつつも、実際の作品に反映することはしないのか、という判断は、意見bがその論理の正当性などをもって周りからどれほど大きな支持を集めたとしても、B自身がそうしたように、Aは自ら考え、決め、行うべきである。

もし、Aが否応もなくBの言うとおりに修正しなければならないのだとすれば、Bにより提示された意見bは、もはや意見ではなく、絶対者Cによる命令cである。
しかしおそらく、それはBにとっても本意ではない。なぜならBにとって望ましいことは、たとえばAが自らの意志でBの意見に同調することであり、あるいは同調をしないまでも、Bの意見を真摯に吟味することであるように思われるからである。

作品aがすべての受け手に及ぼしうる、あらゆる影響に関する責任を、最終的に取らなければならないのは、受け手Bではない作者Aであり、そうである以上、Bが持ちうる作品への影響力、あるいは修正(改変)を求める権利は、必然的にある程度限定されたものにならざるを得ない。
つまり、どのようなものを作り、発表するかという判断は、その作品に関して最終的な責任を問われる作者にしかできないし、またすべきでもないということになる。

ある事象に対して意見を述べるとき、人はその事象に関して責任を取れる度合いに応じた影響力をのみ、有するべきである。
作品の内容から導かれる、あらゆる評価を受け止め、それを生み出したことの責任を問われる対象が作者自身である以上、何を作るかということは、外部からの意見をどの程度取り入れるかということも含め、作者自身が主体的に考え、決めるべきである。

そしてもし、その判断材料が多様で、また幾重にも吟味されたものであるほど良いのだと仮定すれば、外部の者による意見もまた、多様かつ充分な検討を経たものであるほど良いということになるだろう。