103

ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』から抜き書き

おととい書いたようにカーネマンの本を読み終えて( http://d.hatena.ne.jp/note103/20130112#1364346459 )、今はその姉妹編みたいなやつを読んでいるんだけど、それに並行してというかその前に、というか『ファスト&スロー』で引っかかった部分を抜き書きしておく。あとでやろうと思っても面倒になるので・・

システム1に起因するエラーを防ぐ方法は、原理的には簡単である。認知的な地雷原に自分が入り込んでいる徴候を見落とさず、思考をスローダウンさせ、システム2の応援を求めればよい。
だが残念ながら、最も必要なときに限って、こうした懸命な手段はめったに講じられないものである。重大な誤りを犯しそうになったら警報ブザーが鳴り響いてくれるとありがたいのだが、人間にはそうしたブザーは備わっていない。しかも認知的錯覚は、おおむね知覚的錯覚よりも気づきにくい。まちがった直感の声は大きくてよく通り、理性の声は小さくて聞き取りにくい。それに、重大な意思決定という重圧に直面しているときに、自分の直感を疑うのはまことに不快である。トラブルの渦中にあるときに自分の直感を吟味するなど、誰がやりたいだろうか。
それに引き換え、他人が地雷原に迷い込もうとしているときにそれを指摘するのは、自分の場合よりはるかに簡単である。端から見ている第三者は認知的に多忙ではないし、当人より情報を受け入れる余地が大きいからだ。組織の意思決定者に向けてではなく、井戸端会議やうわさ話をする人のために本書を書いたのは、こうした理由からである。
(下巻 P272)

冒頭にある「システム1」というのは脳内の情報処理や認識を司る機能のうち、〈直感〉や〈感情〉を担う部分で、実際にそういう部分があるわけではないがそう名付けることで著者は話をわかりやすくしている。1に対置されるのは「システム2」で、これは1の直感や感情に対して〈熟慮〉を担っている。システム1は素早く自動的に発動するが、意識的に止めることができない。システム2は1に修正を加えることができるが動きが遅く、「怠け者」であると説明される。

引用部分は、同書のほぼ終盤でまとめのように語られるうちの一つであり、抜き書きしておかないと、と思ったきっかけでもあるが、とくに2段落目、ここがすごい。
「まちがった直感の声は大きくてよく通り、理性の声は小さくて聞き取りにくい。それに、重大な意思決定という重圧に直面しているときに、自分の直感を疑うのはまことに不快である。トラブルの渦中にあるときに自分の直感を吟味するなど、誰がやりたいだろうか」。
なにしろ2度引用してしまうほど思い当たりまくり。

もうひとつ、これは最近出会った事象でまさにそのまんまなことがあったので思わずチェックした。

「ある女性が、胃潰瘍の男性と結婚し、彼の消化不良の原因はアメリカボウフウ(ニンジンの一種)を食べるせいではないかと考えた。医者であれば、胃潰瘍が消化不良の原因であって、アメリカボウフウはたまたま食べただけだと考えるだろう」。めったにない出来事は因果関係を想起させ、事実に反する考えを抱かせて、無関係の事柄を結びつける。同じ出来事でも、自分の基準と比べるか、他人の基準に照らして考えるかによって、異なる反事実、異なる因果関係、異なる感情(後悔または非難)につながる。
(下巻 原注P60)

まあボランティアなんかをやってるとこういうことの連続でもある。原発事故とか体罰とかの話も案外近いものがある気がする。
どうしたって自分、というのはつねに「正しい側」に設定されがちだから(通常の生活を過ごしていく上ではそうでないとやっていけないだろうし)、こういうエラーを避けるのは至難の業だとも思う。しかしそれでも、あれ、なんか噛み合わないな、と思ったら、自分が「消化不良の原因はアメリカボウフウに違いない」なんて具合に、じつは単に目立って見えるだけの2つの事象を因果関係下にあるものとして結びつけてしまってるだけなんじゃないか、と自分を疑ってみることでそれを解消できることもあるかもしれない。

ネット上で見た2つか3つのサンプルをもとに世界中がそのような意見を持っていると錯覚するのもその一例だと言えるだろうし、実際にはそれらのサンプル自体は時間的にも空間的にももっとずっとリアルに広く膨大な事象に満ちた世界の中の2〜3の意見にすぎないんだと、想像を(システム2を)働かせてみる必要がある気がする。

3つ目。

右上欄(図)に見られるのは、多くの不運な状況である。ここでは、八方ふさがりになった人々が絶望的な賭けに出て、大損を免れる一縷の望みと引き換えに、高い確率で事態を一層悪化させる選択肢を受け入れる。対処可能だった失敗を往々にして大惨事に変えるのは、この種のリスクテークだ。確実な大損を受け入れるのはあまりに苦痛が大きく、それを完全に避けられるかもしれないという望みはあまりに魅力的である。その結果、起死回生の一手を打つしかないという決断に立ち至る。
たとえば、すぐれた技術の登場で次第に追い詰められた企業が一発逆転を狙って残った試算を無駄に注ぎ込む、といったケースはこれに当たる。戦争でもこうしたことがよく起きる。敵の勝利はもう時間の問題だという事態になってからも、負けている側は敗戦を受け入れがたいため、絶望的な戦いを続けることになりやすい。
(下巻 P128)

冒頭の図(右上欄というもの)がないとわかりづらいようだけど、そうでもないとも思う。ようは負けそうな時ほど無謀な賭けをしたくなる、という話。わかりすぎる・・

まだある。これは長い。

さまざまなデータから、注意を集中しているときや記述が顕著なときには、確率の低い事象の過大評価と起こりそうもない結果の過大な重みづけが起きやすいことがわかる。記述の顕著性は、鮮明な描写と鮮度の強調によって一段と強化される。
とはいえ、もちろん例外はある。ある事象に注意が集中しても重みづけが増えない例としては、十分考えられる事象であるにもかかわらず、誤った推論から「絶対あり得ない」とされるケース、結果が想像できないために「絶対起きるはずはない」と思い込んでしまうケースなどが挙げられる。だから、顕著な事象がつねに過大評価や過大な重みづけのバイアスを伴うとはいえない。とはいえ大方の場合には、まず確実にそう言える。

最近の研究で非常に興味ぶかいのは、「経験に基づく選択」に関するものである。この種の選択は、プロスペクト理論で分析した「記述に基づく選択」とは異なるルールに従って行われる。これらの研究で行われる代表的な実験では、参加者は二つのボタンの前に座る。ボタンを押すと当たりが出るときもあれば、何も出ないときもあるが、これは既定の設定(たとえば「12ドル当たる確率が5%」「1ドル当たる確率が95%」など)に従っている。このプロセスは完全にランダムで、参加者が最初に試して得られる標本が統計的な代表性を持つという保証はない。二つのボタンの期待値はほぼ等しいが、片方はリスク(変動性)がより大きい(たとえば、右のボタンは「10ドル当たる確率が5%」、左のボタンは「1ドル当たる確率が50%」というふうに)。
「経験に基づく選択」実験では、まず参加者は何度もボタンを押してみて、どちらのボタンを押すとどんな結果が多いか、じっくりと観察する。そして本番では、どちらかのボタンを選ぶ。
一方、「記述に基づく選択」実験では、参加者に各ボタンのリスク特性を「12ドル当たる確率は5%である」というふうに言葉で説明する。そしてどちらかを選んでもらう。プロスペクト理論で予想されるとおり、記述に基づく選択では可能性の効果が働く。すなわち、めったにない結果に対して、確率に見合わない過大な重みがつけられる。対照的に経験に基づく選択では、過大な重みは皆無であり、過小になりやすい。

「経験に基づく選択」で設定された実験条件は、同じ要因がさまざまな異なる結果を生む状況を模している。そのような状況は、現実によくある。たとえば、ふだんはおいしいレストランがたまに飛び抜けてすばらしい料理を出す、あるいは逆にひどくまずい料理を出すとか、いつもは沈着冷静な友人がときに涙もろくなる、あるいは突然攻撃的になるといった状況である。また、比較的地震の多いカリフォルニアで大地震が起きる、といった状況もこれに当たる。多くの実験結果は、レストランを選ぶとか、地震に備えてボイラーを固定するといった決定を下す際には、稀な事象は過大評価されないことを示唆している。

経験に基づく選択の解釈はまだ定まっていないが、稀な事象がなぜ過小評価されがちなのか、その主な理由についてはおおむね合意が形成されている。一言で言えば、多くの回答者は稀な出来事を全然経験していない、ということである。たとえばカリフォルニアの住民の大半は、大地震を経験したことがない。また2007年には、深刻な金融危機を実際に経験したことのある銀行家はいない。心理学者のラルフ・ヘルトウィヒとイド・エレブは、「稀な事象(住宅バブルの崩壊など)が起きる可能性は、客観的な確率から考えて当然与えるべきインパクトを与えていない」と指摘する。たとえば長期的な環境破壊に対する市民の反応が鈍いことなどは、その一例である。

〜(略)〜

どんな条件の下で稀な事象は無視されるのか、あるいは過大な重みがつけられるのかについては、プロスペクト理論が開発された当時に比べ、多くのことがわかってきている。稀な事象の確率がよく(いつもではない)過大評価されるのは、記憶の確証バイアスが働くからである。つまり、そのような事象が思い浮かぶと、あなたは頭の中でそれを現実のものとして思い描く。そのことに特別に注意が向けられるとき、稀な事象は過大に重みづけされる。たとえば、可能性が明示的に示された場合(「勝つ可能性は99%で、何ももらえない可能性は1%」といった明確な記述)、激しい不安を伴う場合(自爆テロがさかんな時期のエルサレムのバス)、鮮明なイメージを伴う場合、具体的な頻度表現や明示的な説明(「記述に基づく選択」実験)がなされる場合などがそうだ。そして過大な重みがつけられない場合には、一転して無視されることになる。このように、稀な事象に関する限り、私達の脳は正しい判断を下すようにできているとは言いがたい。まだ誰も経験したことのない出来事に襲われるかもしれない惑星の住人にとって、これはけっしてよいことではない。
(下巻 P146)

ここで対置されてるのは「経験に基づく選択」と「記述に基づく選択」で、後者の「記述」に基づいて選択されたことは「稀な事象」が起こる可能性を過大評価する傾向にあり、言い換えれば「そうそう起こらないようなことをパニクって相当起こるように思い込む」というようなことか。ただし例外的に、真逆の方向に「そんなことあるわけがない」と(これはこれで極端に)それが起こる可能性を無視することもある、と。

一方の(上記前者の)「経験」に基づく方ではむしろその稀な事象が起こる可能性を過小評価される傾向が強い、と。そしてその理由は、「全然経験してないから」。

最後の段で言っているのは上記を踏まえ、ようするに我々には過大評価も無視も過小評価もありがちなわけだけど、それは少なくとも我々の現実の営みの助けになるとは言いがたい、みたいなこと。(たぶん)