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沿道を走る人

トータルで2分ぐらいしか見ていないけど、今年も正月に駅伝をやっていた。
あれでいつも気になるのは、選手の脇を一緒に走る子供たち(や大人たち)である。まあ誰かに迷惑をかけるのでないかぎり、走ること自体は悪いと思わないし、TVに映るとか、選手と並走してみるとか、一瞬でも追い抜いてみるとか、そういうのってなかなか体験できることではないから、それはそれで良いような気もするけど、気になるというのは「これに似たことってよくあるよな」とふと思ってしまう、というようなことだ。

仕事でもボランティアでも、大局から判断される方針というものがあって、しかしディテイルを中心的に見て考えると、大局から導かれたものとは違う方針が出てくることもある。
たとえば大筋では沖縄から北海道へ、「北東」に向かって動くことになっているけど、一直線に北東へ向かい続ける道がないので、どこかで南へ下りたり、時には真逆の「南西」へ進んだりしながら、途中の障害を抜けていかなければならない、というようなことがある。途中まで順調に「北東」へ進んでいたとしても、壁に突き当たったら迂回しなければならないのであって、にもかかわらず意地でも「北東へ進む」ことを優先してその壁が取り壊されるまで(壊される予定がとくにないにもかかわらず)待ち続ける、というのは現実的ではない。だから実際的には、途中やディテイルではどの方向へ旋回したとしても、最終的に目的地へ、なるべくなら最小限の時間や労力をもって辿りつければそれで良い。

しかし状況によっては、そのような「とりあえずの旋回(迂回)」にNGを出される場合というのがあって、それは往々にして全体が見えてない人によってなされるという印象がある。意見は遠慮なく、ある意味気楽に(しかし無責任にではなく)言い合えることが理想だけど、そこだけ見られても、というところがある。そしてそのような「部分だけ見てものを言う人」というのは上記の「沿道を走る人」に近い。

あるいはたとえば、一つのプロジェクトを立ち上げてから収めるまでの間に、ずっと横を並走してくれている人であれば、その時々の問題を相談しやすいけど、一時的にいろいろアドヴァイスしてくれつつ、でも肝心の時に横にはいない、ということもあって、それもまた困る面がある。
もちろん個々それぞれの立場や条件というものがあって、大抵の場合はむしろ、最初から最後まで付き合える人なんていないか、いても少数に過ぎないのは自然というか当然のことではあるが、そうであるならばまたそのような立場であると初めから前提した上での関わり方でなければ、結局途中で全体のバランスが崩れることになる。あえてよく知らない駅伝に再びたとえるなら、途中でペースを上げすぎて棄権に至り、タスキがゴールまで繋げられないような、一時的な観点にだけ方針を奪われたらそのようなことにいつだってなりかねない。

沿道を走る人は、一時的なそのダッシュが終われば家に帰り、TVの続きを見るだろう。それはもちろん悪いことではないが、選手の方はそのまま次の中継地点まで走り抜けなければならず、それまでにも測りきれないほどの距離を走り続けてきたし、その日が終わってもまた走り続けることになる。沿道の人と選手が並走するのはその途方もなく長い時間や距離のうちのほんの一部であって、そのときだけを同じ速度で、あるいは選手以上の速度で走ることができたとしてもやっぱり「選手と同レベルで(あるいはより速く)走った」ということにはならない。

仕事であれボランティアであれ、「そこだけ頑張られても・・」と思うようなことがなくもない。まあ、僕も同様のことを思われていることはあるかもしれないので、他人事というわけではないのだけど、理想としては全体を見た上で、限られたリソースやペースを配分して進めるのが望ましいとは思う。

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一方で、僕らは互いの沿道を走り合っている、という見方もできる。それはラグビーみたいなイメージでもあって、いっとき脇を並走して、仲間へボールをパスして、パスした側は倒れ、ボールを渡された側は次の並走者へまたボールを渡し自分は倒れる。その繰り返し。
それはなんだか、一瞬だけ沿道を全速力で走り、家に帰り、やがて自分の仕事に戻り、その仕事を通して生み出したものが回りまわって駅伝の選手に還元される、というあり方に似ているかもしれない。
だから沿道を走るようなこと、つまり一瞬だけ全力で並走するということ自体が悪いということではない。しかしその時にはたぶん、あくまで一時的な並走をしているのだという前提が共有されていなければそれなりの効果は得られないのではないかと思う。