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間違い探しの小さな島と巨大なリセットボタン

このところは毎週録画している小林克也さんの「ベスト・ヒットUSA」を夕食のたびに少しずつ再生して楽しんでいる。
そのなかで抱いた大まかな印象は、アメリカの今のヒット曲というのは本当にどうしようもなくつまらないな、ということで、数年前まではそれでももう少しまともだったんじゃないか、というようなことだった。どれもこれも似たようなビートに似たようなメロディ、そして音色。びっくりして今自分がどこに生きているのかも忘れてしまうような音楽の魔法、のようなものがなくなっている。これってなんかユーロビートみたいじゃないか、誰も言ってないけど。と思ったらその翌週で小林さんも普通に「ユーロビート勢」とか言っていたからむしろ自明だったのかもしれない。

ユーロビートというのもなかなか定義が難しいというかたんに関心もなかったからどう定義されているのか知らない、というだけのことだが、ようするに音楽に興味がないひとが聴く音楽、というのがこれまでの認識だった。それはなんというか、音楽というよりいろいろ同時に楽しむ中の一つでしかない何かであり、非論理的に表れる魔法というより必然的・強制的に作用する何か。薬を摂取するように再生される何か、というような感じだ。

少し前にアルテスパブリッシングから出ている文化系男子のヒップホップのなになに、という本を買って読んだら、アメリカのヒップホップ業界というのもそういう感じで、それは音楽性とかオリジナリティとかっていうよりゲームとして、一定のルール上の差異や動き方にジャッジをつけるある文化として醸成されているのだ、だから音楽として聴いてて面白くなくてもそれは普通というか、そこに音楽性を求めるのは肉屋で魚を注文したらないと言われて苦情を言うぐらいアサッテなことなのだ、的な(そういう論法ではなかったが)話になっていて、それとちょっと似ていると思った。
つまりUSヒットチャートで流れているような音楽、を求めているような人たちというのは一定ルール上の差異やそこでしか通じない新たな言語によるコミュニケーションのようなものに価値を見出しているのであって少なくとも従来あったようないわゆる音楽性というものをさほど重視はしていない。

ただし考えてみれば日本のヒットチャートだってかなりすごいことになっていて、男子であれ女子であれ韓国勢であれ、売上だけで言ったら私も知らない知ろうとも思えない所謂アイドルたちの曲がただただ並んでいる。そこにあるのは音楽ではなく、オマケ付きお菓子のお菓子の部分だけで、それが何味であろうと別にお菓子の味で勝負しているわけではなくどこかで・どこでも・いつでも食べられる可もなければ不可もないただ甘いだけの何かでもある。いや、よく聴けばそこには大変な才能の作り手が集結していて、ハンバーグに人参のみじん切りを大量に忍び込ませるかのように超マイナー&最新鋭の試みが十全に反映されているのだ、的な側面もあるかもしれないが、それでもそこには「音楽で人々の価値観をひっくり返してやろう」的な目論見があるとは思えないし実際ひっくり返られても困るって感じではないかと思う。

日本のヒットチャートにもUSのそれにも結局音楽のなんというか、聴いた途端にそれまでのことが全部無効化されてしまうような効果みたいなものを求める機運は今はなくて、そこにはそれぞれ想定されたマーケットとしての限定的かつ忠実なお客さんへ向けたローカルな秘密の(対外的には)言語を用いたゲームが、もっと具体的に言えば前回の作品から今回の作品に至る際に生じたわずかな差異がどこにあるかを出題しては当てたり外したりして喜び合う間違い探しクイズ大会によるぬるい狂騒が粛々と繰り広げられているように見える。
それは周りに目を向けてみればそこだけの話ではなくてたとえばある種のハードロック、クラシック、現代音楽、古楽、世界各地の伝統音楽、民謡、日本の演歌や歌謡曲、アニソンなどなどそこかしこに見受けられるもので考えてみれば至極自然というか取り立てて今さら騒いで長文にするほどのことでもなかったのかもしれない。

しかしそれでもやはり、聴いた途端に目の前の世界の色が一気に塗りかえられるような、まばたきも忘れるような大きな体験というのが今でもありえるはずで、そういったものはもうそういうマスっぽいところには出てきづらいのかな、とか思っていたら、今日書店でかかったこの曲を聴いてあれ、と思った。

Nicki Minaj は冒頭の小林克也さんの番組でも常連の歌手だが、ぼくの言うローカルなユーロビートの権化のような感じで少なくともぼくはお客さん扱いされていないというか聴いていて本当に腹が立つほどつまらない曲をやっているな、という印象だったが、初めて聴いたこれはいいと思った。というか構造としては単純な、誰でもやっているようなある意味安っぽい循環コードを当てているだけで、それがメロディックだからいいと思っているに過ぎず、新味もなくあえて評価するようなことかといえば疑問だがそれでもいいと思った。ぼくは単に「Just the two of us」とかスライの「If you want me to stay」のようにひたすら飽きもせずドミナント・モーション中心のコード進行が繰り返されていればそれで満足なのかもしれない。

などと考えながら帰宅して(書店でそれをiPhoneアプリのShazamでキャッチしてそのままYoutubeで聴きながら帰ってきた)、また本日も「ベスト・ヒットUSA」の過去ログを再生していたら最後にリクエスト曲がかかって(ところで16歳の女子からのリクエストだったが今時平日の夜にこんなコアな番組を見ている家庭なんてあるのだろうか。その時点で音楽エリートだと思う。帰国子女かアメリカン・スクールに通っているのではないかと半ば偏見的に想像している)、それがBeyoncéのこれだった。
なんというか、アメリカやっぱりすごいな、という感じだった。考えてみたらアカデミー賞でもグラミー賞でもMTVのVMAでも、というかアメリカのショー的な何かというのはどれも構築美を追求した末にできた堅牢かつ荘厳な大建造物といった風情のパフォーマンスが多くあって、できればそういう一回失敗したら全部無になるような巨大なドラマみたいなものと間違い探し的な小さな世界の増殖とがうまく共存していったらいいなあ、みたいなことを思ったりした。