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国民性に原因を求める

少し前に、東電原発事故の調査報告というもので「原因の一つは日本人の国民性にある」的なことを書いたら、それを見た外国のひとから「責任逃れするな。具体的な責任者がいるやろ」と批判された、みたいな話があって興味深かった。

というのも、その文言というのはぼくからすれば、責任を東電のみまたはそれに準ずる一部の限定的な人だけのものとし、自分はまったく関係のない無害な人間であるという立場からゆるがぬ大義を後ろ盾に批判だけを繰り返すような誰か(特定の誰というわけではなく)に対しても、「あなたを含めた我々全体の問題であり責任なのだ、引き受けていこう」と言っているようなもので、非常にラジカルというか責任を負う覚悟の上に立った、ある意味では勇気あるコメントであるように思えたからだ。

しかし海外のひとからすれば、それは責任者やその所在を明確にしない、むしろ責任を分散または消失させるズルい言説だと受け取るほうが自然だったのかもしれない。
だから、いや、責任を曖昧にしようとしているのではなくむしろ具体的にしようとしているのですよ、と言いたくもなるが、問題は若干複雑でその文言はなぜか(というか)国内向けの内容からは削除されており海外向けのやつにしか記されていなかったらしいので、たんにそれを海外版からは外しておき国内版には入れておく、というふうにしておけば良かっただけではという気にもなる。

しかしまあ、地域ごとの考え方や文化の違いというものがここには表れているのかもしれず、あくまで薄い仮説にすぎないが、日本人にとっての「隣の日本人」との同調感みたいなものと、欧米各国におけるたとえばフランス人にとっての「隣のフランス人」への感覚とは違うものなのかもしれないとも思う。国や民族で物事をくくるとき、彼らにとってそれはあくまで物質的な交通を行なう際の便宜的な看板のようにあって、感性や性質を民族や国(地域)でくくるというのは少し乱暴というか非現実的に思われるのかもしれない。

もしあの事故はA社のB君が原因でした、と言ったら海外のその人たちは納得したのだろうか。しかしコト再発防止のことを考えるなら、「誰もがまた同じような対応をするかもしれない」という認識を明確に示すその「国民性に原因を求める」あり方は具体的かつ効果的であるようにやっぱり思われるのだが。